民宿の屋根(東京・桧原村)

作文ワールド

社会科作文

その3

「旅行記」「紀行文」特集
(鳥観図による書き方)⇒








   ………………………………

< 番外編 >
スイス・アルプス
(桜子さん)
『Saas Fee』①
『Saas Fee』②
1.「修学旅行」三部作Ⅰ - 史乃さん(小6)
  ○ 最初の作文と「鳥観図」のこと
  ① 『吉野ヶ里遺跡』
  ② 『長崎平和公園』
  ③ 『グラバー園』

2.「長崎紀行」 - 虎太郎くん(中1)
  ① 「チャンポン」
  ② 「軍艦島」
  ③ 「出島」

3.「エジプト紀行」 - 夏実さん(中2)
  ① ピラミッド、スフィンクス
  ② ナセル湖、アブシンベル神殿
  ③ エジプト料理、ナイル川クルーズ
  〇 終わりに

4.「奈良ツアー」 - 陶子さん(小5)
  ① 「写経」
  ② 「座禅」
  ③ 「阿修羅像」

5.「修学旅行」三部作Ⅱ - 楓さん(小6)
  ① 「日産自動車追浜工場」
  ② 「第五福竜丸展示館」
  ③ 「国会議事堂」

「社会科作文」-その1  「社会科作文」-その2
作文ワールドⅠ(原点) 作文ワールドⅡ(1人1人の作文) 
 作文ワールドⅣ(理科作文)  作文ワールドⅤ(スポーツ作文)
 Ⅵ(七五の四行詩)  Ⅶ(図工作文)  Ⅸ(家庭科作文) Ⅷ(エトセトラ)
Ⅹ(作文のこころ)
「東日本大震災」の作文・第1部  第2部・第3部

作文打出の小づち
総もくじ
作文編  国語編  小論文編  閑 話

 中学生の作文と国語  作品展示場(扉)  トップページ 



『修学旅行』3部作Ⅰ (小6 戸成史乃)


 最初の作文と鳥観図(ちょうかんず)」のこと


史乃さんは福岡県に住んでいて、公立の中高一貫校を目指している。
このホームページには既に「八屋祇園」登場している。こちらへ。

受講を始めて間もない頃の「修学旅行」と題する作文は、
次のようなものであった。

最初の作文 添削例・諸注意
 5月8日と9日に、修学旅行で長崎へ行きました。修学旅行では平和や歴史を学びました。1日目は、佐賀の吉野ヶ里遺跡や長崎の平和公園などに行きました。吉野ヶ里では昔の家や敵の侵入をふせぐ設備などを見ました。見学が終わると、土笛作りをしました。土をこねたり穴をあけたりして笛を作りました。みんな音がちがい、おもしろかったです。平和公園では、平和祈念像を見ました。平和祈念像は思ったより大きくてびっくりしました。平和祈念像をよく見ると、悲しそうな顔になっているような気がしました。平和祈念像の前にある平和の泉は、原爆で水を求めた人のために作られたものです。この泉の前には詩があります。水が飲みたくて、とうとう油の浮いた水を飲んでしまったという女の子の詩です。水が飲みたいのに、きれいな水がないのはかわいそうだなと思いました。他には、グラバー園に行きました。2日目はハウステンボスに行きました。ハウステンボスでは、グループに分かれて行動しました.。私は、仲のいい友達と同じグループになりました。いろいろなアトラクションや3Dを見ていると、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
 一泊二日の短い修学旅行でしたが、いろいろな体験やふだんできないことができました。とても楽しく、友達との友情も深まりました。
← 佐賀と長崎へ

※ 「1日目は」で改行。

※ どのくらい昔なのかな。



※ 「平和公園では」で改行。
← ……見ました。右手で点を指し、左手を横に延ばして座っている姿は、思ったより……







※ 「2日目は」で改行。





※ このうちの主なものを1つずつ、もっとくわしく書いてみよう。

これが学校で書く標準的なものかもしれない。
字数も600字程度である。

せっかくいい所に行っておきながら、もったいない観もあるので、
次のようなコメントを付けた。

 
 福岡に住んでいると、修学旅行の行く先はユニークでいいね。近畿とその周辺の子は京都・奈良・大阪で、関東地方の子は主に日光だ。吉野ヶ里に行けるなんて、ほかの地方の子はうらやましいだろうなあ。

 ところで、作文のほうはメモならこれでよいが、「平和の泉」のほかは印象のうすいものになっている。
 そこで、主なものをいくつか取り上げて、1つずつくわしく書いてみよう。
 書き出しはどれも次のようにして、内容に応じて下線部を変えるとよい、
 5月8日、9日に修学旅行で佐賀、長崎へ行きました。吉野ヶ里遺跡、長崎平和公園、グラバー園、ハウステンボスなどを訪れました。その中で最も心に残ったのは、平和公園の「平和の泉」です。

 下線部は、次のように考えられる。

        最もよい勉強になったのは「吉野ヶ里遺跡」です。
        最も楽しかったのは「ハウステンボス」です。

 題もそれぞれに応じて決め、独立の作品として別々に書いてみよう。きっといい記録になるよ。

「いつ、どこで、何をしたか」は、旅行記に限らず、作文の基本である。
旅行記の場合、
これに、訪れた主な場所や見聞した事柄を列挙しておけば
旅行全体の見取り図が得られる。
この「全体の見取り図」を「鳥観図(ちょうかんず)」と呼んでおこう。

鳥観図は、今は鳥瞰図と書くこともあるが、
鳥が空から見ている風景である。
これがあれば、旅行の概要が一目で分かる。
その上で、訪れた場所のどれかひとつを取り上げれば、
それがクローズアップされ、また、
それを具体的にくわしく書いていけば、
感動したこと、印象に残ったこと、楽しかったことが
具体的なイメージとして浮かんで来よう。


史乃さんは手持ちの資料を使い切っていないこともあったのだろう、
一つ一つに意欲的に取り組んだ。



   『吉野ヶ里遺跡』


史乃さんには、「吉野ヶ里って、どんなものなのか、
知らない人に案内するつもりで書いてみよう」と話しておいた。

はじめの作文 添削例・諸注意
 5月8日、9日に修学旅行で佐賀、長崎に行きました。吉野ヶ里遺跡、長崎平和公園、グラバー園などに行きましたが、最も印象に残っているのは吉野ヶ里遺跡です。
 吉野ヶ里遺跡というのは、弥生時代の集落や墓地の跡のことです。弥生時代の遺跡の中でも、この遺跡はわが国最大の遺跡で、佐賀県神埼郡の旧神埼町、旧三田川町、旧東背振村の3町村にまたがっています。ここでは弥生時代における「クニ」の中心的な集落の様子や、弥生時代600年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料が集まっています。吉野ヶ里遺跡は、中国の『魏志倭人伝』(古代日本の様子を記した最古の記録)に出てくる「邪馬台国」の時代をありありと想像させるもので、国の特別史跡に指定されています。
 吉野ヶ里遺跡には、7つの場所があります。南内郭は王たちの住まいです。吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、周りのムラムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。北内郭は…………
          (中略)

 私たちはバスから降りて、入り口に行きました。入り口を真っすぐに行くと、弥生時代の門がありました。右手に進むと南内郭でした。

          (後略) 


◎ 修学旅行全体の見取り図(鳥観図)ができたね。


◎ 遺跡の規模がおおよそ分かる。ついでに、何ヘクタールぐらいあるのか、書き添えておくといいね。






※ 7つの場所の位置関係を、距離も添えて示しておこう。
 そうすれば、見学の順序も分かりやすくなるよ。



←※ どこから入ったのか、見取り図があれば分かりやすくなるよね。

ここで、吉野ヶ里遺跡全体の見取り図、
文字どおりの鳥観図を書き加えることになる。


書き直した作文 添削例・諸注意
 5月8日、9日に修学旅行で佐賀、長崎に行きました。吉野ヶ里遺跡、長崎平和公園、グラバー園などに行きましたが、最も印象に残っているのは吉野ヶ里遺跡です。

 吉野ヶ里遺跡というのは、弥生時代の集落や墓地の跡のことです。弥生時代の遺跡の中でも、この遺跡はわが国最大の遺跡で、佐賀県神埼郡の旧神埼町、旧三田川町、旧東背振村の3町村にまたがっており、広さは約70ヘクタールあります。ここでは弥生時代における「クニ」の中心的な集落の様子や、弥生時代600年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料が集まっています。吉野ヶ里遺跡は、中国の『魏志倭人伝』(古代日本の様子を記した最古の記録)に出てくる「邪馬台国」の時代をありありと想像させるもので、国の特別史跡に指定されています。

 吉野ヶ里遺跡は南北に長く、南北が約1500メートル、東西が中央部の長い所で約600メートルあります。建物や住居跡は北と南に分かれており、北は大事な場所、南は一般の人々の場所というふうになっています。北半分の地域には北東から南西にかけて北墳丘墓、北内郭、中のムラ、南内郭、倉と市があり、南半分の地域は南のムラとなっています。
 北墳丘墓は、吉野ヶ里集落の歴代の王たちが埋葬されている特別なお墓です。とてもじょうぶな構造になっており、ガラス製の管玉や銅剣がいっしょに収められている墓もあります。北内郭は、クニ全体にとって最も重要な場所でした。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りや大きな市を開く日を決めたりしていました。中のムラは、北内郭で行われる祭りや儀式に使われるものを作っていた所と考えられています。
 南内郭は王たちの住まいです。吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、周りのムラムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所です。周囲を環濠と城柵で囲まれていること、敵を見張るとともに集落の権威を示す物見やぐらがあったことなどから、そう考えられています。倉庫群には海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品、市で取引される品々が保管されていました。当時の交易の重要な手段である舟が利用できる川が近くを流れていたことから、そう考えられています。盛んな市が開かれていたとも考えられています。
 南のムラは、一般の人々が住んでいた所ですが、これは北が上位で南が下位という中国の考え方の影響を受けていると考えられます。

 私たちはバスから降りて、東の入り口に行きました。入り口を真っすぐに行くと、弥生時代の門があり、右手に進むと南内郭でした。南内郭の入り口のすぐそばに物見やぐらがありました。とても高く、ここで見張ると敵もすぐに見つけられるなと思いました。ここは城柵でしっかりと囲まれていました。そこから西に進むと、環濠の外に倉と市がありました。高床の倉庫がたくさん並んでいて、倉庫にはねずみ返しがあって、ねずみが入らないように工夫していました。観察が終わって、中のムラに行きました。環濠から中に入ると、中のムラです。ムラを細かく見ると、稲穂の倉、織物の倉、酒造りの家などがありました。ここでは仕事を分担して行っていたのではないかと思いました。この倉の一つに自動販売機が置いてあり、見つけたときにはなぜこんな所にこんなものがあるのだろうと不思議に思いました。
 そこから、北内郭の環濠の板壁を右に見て北東に進むと、墳丘墓というお墓が並んでいました。お墓には楕円形の棺おけがありました。それはかめ棺という棺おけで、弥生時代の九州北部に見られる特徴のある棺おけだということです。私は、弥生時代にはもうお葬式があったんだなと思いました。墳丘墓の並んだ先には北墳丘墓がありました。歴代の王の墓の横に棒が立ててありました。これは立柱といって、ここに祖霊が眠っているという印だそうです。最後に北内郭に行きました。ここは身分の高い司祭者だけが住み、神や祖霊との交信を行っていた場所です。「主祭殿」では人形で雰囲気を再現していました。

 吉野ヶ里遺跡に行ってみて、争いごとや政治があんな昔から行われていたんだと初めて知りました。王の墓を見て、こんなに大勢の王様がいたんだなと思いました。今なお調査が続いているようなので、どんな新しい発見があるのだろうと楽しみです。まだ見学していない場所もあるので、今度は家族で吉野ヶ里に行きたいと思います。 


◎ これが一つ目の鳥観図だね。





◎ 広さも数字で表されたね。広大な遺跡であることが分かる。













◎ 二つ目の鳥観図もできた。

























◎ 鳥観図があるから、入り口の位置と、回った順路がよく分かる。











○ 古代世界に浸っていたのに、興ざめだったことだろうね。

史乃さんは部分修正もしながら、1か月(4週)かかって書き上げた。
400字詰めの用紙で5枚半(約2,200字)になる。

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 『長崎平和公園』

長崎市の中心街は、長崎港の東斜面に広がっている。
長崎港は南に開けており、
その奥まったところに長崎駅があって、市街地につながっている。

それでは、長崎平和公園を案内してもらおう。

はじめの作文 添削例・諸注意
 5月8日、9日に修学旅行で佐賀、長崎に行きました。吉野ヶ里遺跡、長崎平和公園、グラバー園、ハウステンボスなどに行きましたが、最も心に残っているのは長崎平和公園です。
 
 長崎平和公園は長崎駅の北約2,5kmの所にある総合公園で、面積は約20haあります。この公園は、次代を担う子供たちの平和学習の拠点として整備され、祈りと願いにあふれた安らぎの場として多くの人々の訪問を受けています。
 平和公園には「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」「スポーツのゾーン」「広場のゾーン」の5つのゾーンがあります。私たちは「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」に行きました。
 「願いのゾーン」は…………

          (後略) 
◎ これを独立の作文を考えると、旅行全体の鳥観図(見取り図)は必要だね。









※ 5つのゾーンの位置関係を示しておこう。

添削例に従って、5つのゾーンの説明が加えられた。

書き直した作文 添削例・諸注意
 5月8日、9日に修学旅行で佐賀、長崎に行きました。吉野ヶ里遺跡、長崎平和公園、グラバー園、ハウステンボスなどに行きましたが、最も心に残っているのは長崎平和公園です。
 
 長崎平和公園は長崎駅の北約2,5kmの所にある総合公園で、面積は約20haあります。この公園は、次代を担う子供たちの平和学習の拠点として整備され、祈りと願いにあふれた安らぎの場として多くの人々の訪問を受けています。
 平和公園には5つのゾーンがあります。長崎本線の線路をはさんで、東側に北から「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」があり、西側に北から「スポーツのゾーン」「広場のゾーン」があります。私たちは「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」の順に回りました。

 「願いのゾーン」は、平和祈念像を中心に、平和の泉のほか、世界各国から寄贈されたモニュメントがあり、平和を願う空間になっています。
 平和祈念像は大きな男の人が台座に座って右腕を上げて天を指し、左腕を水平に延ばしています。台座の裏に「右手は原爆を示し、左は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」と、作者の言葉が刻まれています。作者の北村西望さんは郷土出身の彫刻家で、祈念像は昭和30年(1955年)に完成しました。像は青銅製で、高さはキリン2頭分、重さはゾウ5~6頭分あるそうです。
 平和祈念像の前には、平和の泉があります。この泉は、水を求めながら亡くなった原爆犠牲者の冥福を祈って造られました。8月9日の平和祈念式典の前日の夜には数多くのロウソクが灯され、犠牲者を悼む市民の催しが行われます。
 モニュメントには「人生の喜び」「乙女の像」「平和のマント」があります。「人生の喜び」はチェコスロバキアから贈られたもので、女性が男の子を両手で差し上げ、母親と子供の喜びを表しています。「乙女の像」は中国から贈られたもので、人類の平和と末長い日中友好を願う中国の人々の真心が表されています。「平和のマント」はニュージーランド政府とウェリントンなど6都市から平和と友好の証しとして贈られたもので、マントは平和な世界に身をゆだねる人々の一体感を包み込んで守るということを象徴しています。
 「祈りのゾーン」には、原爆落下中心碑や浦上天主堂遺壁があります。落下中心碑は直径30メートルくらいの芝生の円の中心にあって、黒い箱があり、その中には原爆で亡くなった人の名簿が入っています。天主堂遺壁は、爆風でずれた壁がそのままの形で残されて立っています。
 「学びのゾーン」には、長崎原爆資料館があります。館内では原爆投下直後の街の惨状を再現し、被爆直後の状況を写した写真や被爆した品々が展示されています。他にも、原爆記録映画を上映しているビデオルームや被爆体験講話など、たくさんの資料があります。

 私たちは、最初に平和祈念像の所へ行きました。祈念像はとても大きいので、見上げると首が痛くなるほどでした。祈念像の顔は、私には何となくさみしそうに感じられました。平和の泉はとてもすずしくて、水もきれいでした。でも、戦争の犠牲者は水が飲みたくても水がなくて、とても苦しかっただろうなと思いました。平和の泉の周りには、赤とオレンジのタイルで炎が迫ってくる様子が描かれていました。そこを通り過ぎると、「人生の喜び」「平和のマント」などのモニュメントに出会いました。一番最初に見たのは「乙女の像」です。その回りにはセンサーみたいなものが張ってあったので、とても大事なものなのだなと思いました。
 そこから石段を下りると、「祈りのゾーン」に出ます。原爆落下中心碑の前では、みんなで手を合わせ、二度と戦争が起こらないようにと祈りました。その前の道を行くと、原爆落下当時の地層があります。ガラスやレンガなどがばらばらになって埋まっていました。
 そこから橋を渡って石段をのぼると、「学びのゾーン」で、原爆資料館があります。そこには、爆風によって曲がった柱や、人の影がそのまま映ったシャッターがありました。私は以前その話を聞いたことがあったのですが、そのときは影はぼんやり写っているのだろうと思っていました。ところが、影はくっきり残っていました。よっぽど光が強かったんだと思いました。また、サイダーびんが手にくっついているのを見たときは、とても痛々しく、ふつうではあり得ないことが起こっているので、怖いと思いました。

 長崎平和公園に行ってみて、「もう戦争なんかしてほしくない!」と思いました。戦争はたくさんの人を殺してしまいます。だれもうれしくなんかありません。今もなお世界のどこかで戦争が起きているので、だれかがまた亡くなっていると思うと悲しくなります。
 長崎に勉強しに行ってよかったと思いました。












◎ 2つ目の鳥観図ができたね。これがあると、あとの説明が分かりやすくなり、まわった場所もよく想像できる。










○ 高さと重さの説明がいいねえ。メートルで示すよりもよく分かる。


これも5枚半(2200字)の大作だが、
順々に、すらすら読めたことと思う。

平和祈念像の台座の裏に刻まれている作者の言葉を載せておこう。



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 『グラバー園』

三部作の3つ目は「楽しかったこと」として、
はじめは「ハウステンボス」の予定であったが、
歴史に興味があったのだろう、
別のところに楽しみを見出している。

400字詰めで7枚に及ぶ大作であったが、
主な建物や像、エピソードに絞って書き直した。

書き直した作文 添削例・諸注意
 5月8日、9日に修学旅行で佐賀、長崎に行きました。吉野ヶ里遺跡、長崎平和公園、グラバー園、ハウステンボスなどに行きましたが、最も楽しかったのはグラバー園です。
 
 グラバー園は長崎港の東側の丘の南山手にあります、広さは約3万平方メートルで、園内には旧グラバー邸のほか、いろいろな住宅があり、歌劇『蝶々夫人』を演じた三浦環の像や、長崎伝統芸能館があります。
 グラバー園は幕末の自由貿易時代の外国人居留地で、グラバー邸はもともとグラバーが接客用に建てたものを、住居として増築を重ね、明治の中ごろに現在のような姿になりました。日本で最も古い木造洋風建物として知られ、国の重要文化財に指定されています。
 グラバーという人物は、スコットランド出身で、長崎の開港と同時に商人として日本に来ました。幕末の動乱の中、志士たちを陰で支え、伊藤博文の英国留学を手伝ったり、坂本竜馬を天井裏の隠し部屋にかくまったりするなど、有望な若者に多大な援助をするとともに、近代科学の導入に貢献しました。性格はとても大らかで愛情深く、妻のツルや子供たちを大切にしたそうです。
 グラバー邸が有名になったのは、三浦環が演じた『蝶々夫人』(マダムバタフライ)によってです。三浦環は欧米の舞台で「マダムバタフライ」を2000回以上演じたオペラ界のプリマドンナです。このオペラは1904年にイタリアのミラノで初演され、大ヒットしました。原作者のアメリカ人作家ロングの姉が、布教のため長崎に来て、東山手に住んでいました。ロングはその姉の話からインスピレーションを得て、この物語を書きました。蝶々夫人のモデルはグラバーの妻のツルではないかといわれ、グラバー邸は蝶々夫人のゆかりの地となっています。

 グラバー園は南から北に向かって上りになっており、幕末から明治にかけてのイギリス商人の邸宅や裁判所長官の官舎などがあちこちに移築されています。丘の中ほどにグラバー邸があり、その上に三浦環の像があります。園の入り口には「グラバースカイロード」という動く歩道があります。これは「斜めに動くエレベーター」で、市民の足として設置されたものですが、丘の上まで行けます。
 私たちは最初にスカイロードに乗りました。上るにつれて、青空と街の風景が広がります。坂の街の風景がいろいろに変わるので、楽しい道路です。ふつうのエレベーターに乗り換えて頂上に着くと、目の前に海が広がり、それが太陽の光に輝いて、まるで宝石のような美しい景色でした。そこから石段を下って昔の住宅の間を抜けていくと、三浦環の像の前に出ました。環さんは着物姿で、小さな女の子に何かを指差して教えるような格好で立っています。その左には、『蝶々夫人』を作曲したプッチーニの像があります。その前の広場を通って階段を下りると、グラバー邸です。上から見ると、屋根が四葉のクローバーの形をしています。庭園からは長崎港がよく見えます。家の中にはステッキや釣り道具など、グラバーのゆかりの品々が展示されています。ツルが使っていた部屋に通じる廊下の天井には隠し部屋が残されています。
 グラバー園にはおもしろい言い伝えがあります。それは、ハート型の石を見つけて、それに触ると恋が叶い、二つ見つけると良いことがあるというものです。私は友だちといっしょに探しました。一つはグラバー邸の庭の方位盤の下にありましたが、もう一つが見つかりません。そこから石畳の道を下りながら、二人で手分けして探しました。伝統芸能館の近くまで行くと、はっきりハート型をした石がありました。思わず歓声をあげ、二人で手を取り合って喜びました。

 グラバー園という名前を聞いたときは、外国の大きな噴水や白いベンチなどがある広い公園をイメージしていましたが、実際には大きくてきれいな邸宅がいくつもあったので、驚きました。また、グラバー邸は歴史上の人物とも関係があることが分かって、とても親しみを感じました。
 全部を見ることができなかったので、一度ゆっくり訪れたいと思います。
















○ 開港は1858年の「日米修好通商条約」によってなのだね。









































◎ 蝶々さんはここから港を眺めて、夫の帰りを待っていたというわけなのだね。

夏休み中は「適性検査」問題の対策と並行して、
史乃さんはこれを書き次いでいった。
仕上がったのは、9月に入ってからであった。

その後はもっぱら入試問題の類題に取り組んだのだが、
これだけの大作をきちんと仕上げた後だったせいか、
余裕をもって類題をこなしていった。
希望の公立中高一貫校に合格したのは言うまでもない。
こちら


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.長崎紀行

 「チャンポン」

虎くんは家族旅行であちこちに連れていってもらう。
長期の休みには遠出もする。

はじめの作文 添削例
 3月28日から31日まで、家族4人で長崎へ行きました。長崎では平和公園、爆心地、浦上天主堂、原爆資料館、グラバー園、出島、ハウステンボス、軍艦島など、様々な観光名所に行きました。その間にオランダ坂を歩いたり、眼鏡橋を見たり、チャンポンを食べたり、夜景を見たりしました。その中で、一番楽しかったのはチャンポンを食べたことです。
 ぼくはこの旅行で、チャンポンを2回食べました。1回目は1日目の夜に「康楽(かんろ)」というお店で、2回目は3日目の昼に「群来軒(ぐんらいけん)」というお店で食べました。ぼくはそれまでチャンポンを、家の近所の「リンガ-ハット」でしか食べたことがなかったので、「長崎のチャンポンは、おいしいのかな」と思っていました。「康楽」で出されたチャンポンを一口食べて、「このほうが断然おいしい」と思いました。「康楽」のチャンポンの特徴は、かまぼこ、エビ、キャベツ、豚肉、ニンジン、イカ、シイタケ、さやえんどう、もやしなど、たくさんの具が入っていることです。夢中で食べて、すっかり平らげてしまいました。「群来軒」のほうは具が少し減って、スープがやや辛目でした。ぼくのチャンポンの好きなところは白いスープです。味が濃いし、店によって味が微妙に違うからです。このスープを飲みほすと、満足で、気持ちがスッキリします。
 長崎にはもう一つの名物、「皿うどん」があります。父や母がよく食べていました。少し分けてもらって食べたら、やっぱり今まで食べたことがないほどいい味でした。皿うどんのいいところは麺がパリッとしていることです。食感がたまりません。だけど、もうお腹がいっぱいで食べられませんでした。店によっては、麺の種類を選べるということなので、行ってみたかったです。
 チャンポンや皿うどんは、地元の人にも大変な人気で、中に入ろうとしても混んでいては入れない店もありました。今度はもっとたくさんチャンポンも皿うどんも食べに行きたいです。 


◎ 鳥観図(全体の見取り図)が入っている。これがあるから、チャンポンも取り上げる価値のあるものとして期待がかかる。












← 具が少な目で、

※ 味が微妙に違うのもいいところなのだろうな。





← だけど、その時はもう……


第1段落にあるように、虎くんはいろいろな所を見て回り、
それぞれの印象を記しているが、
「平和公園」や「グラバー園」については、
すぐ上の「修学旅行三部作」に力作があるので、
これらについては、印象をそちらに譲ろう。


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虎くんの興味は、ちょっと変わったところにある。


 「軍艦島」

はじめの作文 添削例
 3月28日から31日まで、家族4人で長崎へ行きました。長崎では平和公園、爆心地、浦上天主堂、原爆資料館、グラバー園、出島、ハウステンボス、軍艦島など、様々な観光名所に行きました。その間にオランダ坂を歩いたり、眼鏡橋を見たり、チャンポンを食べたり、夜景を見たりしました。その中で、一番興味深かったのは軍艦島です。

 軍艦島はもともとは端島(はしま)と呼ばれていました。この島から石炭が見つかったのが1810年で、実際に採掘が始まったのは、三菱社がこの島を買い取った1890年からです。端島炭鉱の石炭はとても質が良かったので、隣りの高島炭鉱とともに、日本の近代化に重要な役割を果たしました。年ごとにだんだんと石炭の量が増え、島の住民の数も1960年には5300人になりました。
 島は南北が約500m、東西が約150mと細長く、面積は約7.5haです。島の半分が鉱場で、残りの土地にアパートなどの建物が密集していました。それを海のほうから見ると、その形が軍艦に似ていたので、軍艦島と呼ばれるようになりました。
 狭い所でぎゅうぎゅう詰めの状態でしたが、島民はみんな仲が良く、犯罪はほとんど起きませんでした。坑夫たちは階段で地底へ下りていって、作業が終わると、また戻ってきました。坑夫たちの顔は、朝下りていく時は緊張していて、夕方上ってきた時はほっとした様子だったそうです。
 朝、市場が開かれ、食材は午前中に完売しました。子どもたちは学校で勉強した後は、島の神社や公園で遊んだり、夏は島の中のプールで泳いだりしました。

 活気にあふれた島でしたが、1974年に炭坑が閉山され、人々は島を去っていきました。端島は人が住んでいた頃はほとんど緑がなかったのですが、無人になってから島は緑に覆われました。美しい代わりに台風の被害も大きくなり、建物は一部がこなごなになっています。現在は、島の南側の通路を歩けるだけで、中には入れません。ぼくたちはその通路を歩きながら、ガイドさんの話を聞きました。
 軍艦島には、日本の近代化を支えてきた、たくさんの人々の気持ちが残されており、元島民の人たちが「軍艦島を世界遺産に」という会を作って、実現に努力しています。「常に日本の未来を一歩リードしてきたこの島を、世界の人に見てもらおう」という気持ちから、この会が発足したそうです。
 帰りの船の上から、軍艦の形をした島を見ながら、これからもたくさんの人がこの島にくるだろうな、そして、ガイドさんの説明を聞いてどう思うだろうかと思いました。 



○ この作文を単独のものと考えると、旅行全体のこの紹介(鳥観図)は必要だよね。



← 軍艦島は長崎港の南方20㎞ぐらいの所にあり、端島と呼ばれています。


← 隣りの島の高島炭鉱とともに、 





























← ガイドさんから、ここに書いたような話を聞きました。


帰りの船の上からのシーンが、動きとともにロマンを感じさせる。

付記;
これが書かれたのは平成25年の4月で、それから2年余り後の
平成27年(’15年)7月6日に
軍艦島は「明治日本の産業革命遺産」の1つとして
ユネスコに登録された。

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歴史の好きな虎くんの、いちばん行きたかったのは
ここかもしれない。

 「出島」

はじめの作文 添削例
 3月28日から31日まで、家族4人で長崎へ行きました。長崎では平和公園、爆心地、浦上天主堂、原爆資料館、グラバー園、出島、ハウステンボス、軍艦島など、様々な観光名所に行きました。その間にオランダ坂を歩いたり、眼鏡橋を見たり、チャンポンを食べたり、夜景を見たりしました。その中で、社会科の勉強との関係で必ず見ておきたかったのは出島です。

 出島は長崎港の奥まった所にあり、長崎の町に接しています。日本が江戸時代に鎖国していた頃、唯一外国に開かれていた窓口のような島でした。ここからオランダの様々な物や文化がもたらされました。出島が作られたのは1634年です。もともとはポルトガル人を収容するための島でしたが、幕府が鎖国政策をとった時、中国とオランダ以外の外国人を締め出し、オランダ人が1641年から出島に住むことになりました。
 出島は、扇を開いたときの紙の部分のような形をしていました。面積は約1.5ヘクタールです。これを築いたのは町の有力者25人で、今のお金で約4億円の費用がかかったそうです。島に住んでいたのはオランダ商館員と通訳などです。出入口は陸地との間に1か所の橋しかなく、基本的に日本人は公用以外は立ち入りを禁止されていました。建物はカピタン(商館長)部屋、ヘトル(商館長次席)部屋、一番蔵、二番蔵など13棟があります。商館員たちはビリヤードやバドミントンで遊んでいました。ヤギや象などの動物もいたそうです。
 こうして、幕末までの200年余り、オランダとの貿易が行われました。主な輸出品は銅や樟脳、陶磁器などで、輸入品は布地や錫、鉛などでした。取引の仕方は、まずオランダ船から輸入品を下ろし、代わりに輸出品を積み込むという方法でした。1859年、出島のオランダ商館が廃止され、代わりに領事館が置かれました。

 ぼくが見た出島は周りが埋め立てられていましたが、ほとんどの建物が復元されていて、当時の様子がよく分かりました。こんな狭い所に住んでいて、オランダ商館員たちはどう思ったんだろうと思いました。
 出島は江戸時代、唯一の貿易港として重要な役目を担っていました。カピタンから最新の学問、世界の情勢などの情報を得て、日本は学問を発展させたり、外国に対する政策を決めたりすることができました。こんなことが分かって、長崎へ行ったかいがあったと思いました。




◎ この作文自体は三部作のうちの1編であっても、独立の1編を前提に考えると、この導入部(鳥観図)は必要だよね。






← ……もたらされ、また、日本の工芸品などが輸出されました。





○ 75m×200mぐらいの見当かな。



















○ 今は長崎市出島町になっているんだね。


おしまいの感想がいいねえ。
旅行のことを物見遊山(ものみゆさん)とも言うが、
単なる見物ではなかったわけだ。



「エジプト紀行」①

―― ピラミッド、スフィンクス ――


夏実さんは序論ともいうべき「考古学」で次のように述べている。
「私が調べてみたい国は
エジプト、ヒッタイト、バビロニア、アッシリア、アマゾン、ミタンニなどだ。
中でも、最も興味をもっているのはエジプトだ」

これに続いて、古代のエジプト王朝について、概要が述べられているが、
これは「紀行」の中で繰り返されることになるので、ここでは省略する。

2010年8月14日、夏実さんはお母さんと、成田からカイロへの直行便に乗った。
午後1時に発って、現地時間の夜8時に着いた。時差は7時間。
前日は興奮で眠れず、この日は14時間の旅が退屈で眠れず、という有様であった。
「紀行」は2日目から始まる。

エジプト紀行 2日目
 2日目、その日はギザの三大ピラミッドとスフィンクス「太陽の船博物館」、パノラミックポイント、「モハメド・アリ・モスク」に行きました。
 ピラミッドは、クフ王、メンカウラー王、カフラー王の三大ピラミッドうちの一つ、最大のクフ王のピラミッドに入りました。中は暑くて、おまけに上ったり下ったりを繰り返したので、とても疲れました。玄室は一つの箱があるだけでした。壁にはとても高価で強い御影石が使われていました。戻るときは行き以上に大変でした。天井の低い坂道を低姿勢で進まなくてはならなかったからです。やっと外に出たとき、暑いはずなのに涼しく感じられました。
 スフィンクスは、スフィンクスの足元のエリアに特別入場できました。スフィンクスは第4王朝のカフラー王の肖像ともいわれ、額に王権の象徴であるヘビの形章を付けています。ひげはとれて、一部は考古学博物館にありますが、ほとんどは大英博物館にあります。
 「太陽の船博物館」には、ピラミッドの近くにあったという太陽の船が、いったん壊れていたのを復元したものが展示されています。この船は王の魂を運んだとされるもので、とても間近で見ることができました。
 パノラミックポイントでは、らくだに乗ることができました。らくだはとても背が高く、立つときと座るときに、落とされて死ぬかと思いました。そこは三大ピラミッドが一望できる所で、ピラミッドがとても大きく、きれいに見えました。
 昼食を食べ、午後は「モハメド・アリ・モスク」に行きました。モスクはエジプトのいたる所にありますが、そのモスクはトルコ風の、とても大きくきれいなモスクで、風がふくとガラスがゆれて、とてもきれいでした。モスクはイスラム教の人々の礼拝場ですが、そこには多くのイスラム教徒が訪れていました。
 2日目はあっという間に過ぎました。とても有意義な一日でした。








← 玄室には






← スフィンクスは、その足元の





















※ 窓のガラスかな、飾りの、カーテンのようなガラスかな。

玄室の箱のことやモスクのガラスのことなど、もっと聞きたいこともあるが、
次へ進もう。


 「エジプト紀行」②

―― ナセル湖、アブシンベル神殿 ――

紀行は3日目、4日目に入る。
名所めぐりのほかに、現地での生の体験がおもしろい。

エジプト紀行 3日目
 その日は朝の8時40分にカイロ国際空港を出発して、10時5分にアスワンのダウラ空港に着きました。アスワンではナセル湖やアスワン・ハイダム、切りかけのオベリスクを観光しました。
 ナセル湖はとてもきれいで、向こう岸が見えないくらいの広さでした。アスワン・ハイダムは、ナイル川の水をいつでも使えるように作ったダムで、エジプトの人々の生活にとても役立っていますが、ダムを作ったことにより弊害も起きています。雨が降らなかった地域で雨が降るようになり、日干しレンガで作られていた家をコンクリートに変えなければならなくなりました。
 切りかけのオベリスクは古代の石切り場にあります。切りかけのままになったのは、古代に何らかの変動があって、真ん中に亀裂が入ってしまったためと考えられますが、古代の石の切り方がよく分かる貴重なものとなっています。
 そのあと、ダウラ空港に戻って、アブシンベルへ行きました。飛行機で45分です。そこはけっこう田舎で、ホテルで昼食を食べた後、部屋に行ったところ、なんとヤモリがいました。目を離したスキに大きさが変わっていました。「あんなに大きかったっけ」と思っていたら、2匹いたのでした。
 アブシンベル神殿は、ダムができるために高いところへ移されました。高さが10階建てのビルくらいあり、思っていたよりもはるかに大きかったので、圧倒されました。4人の王様の像はすべてラムセス二世のものです。この王は古代エジプト史上最も有名な覇王といわれます。男性の平均年齢が40歳くらいだった当時、90歳まで生きた王ですが、同世代の人がどんどん死んでいくのに自分がまだいきていることから、だんだん自分は神なのではないかと思うようになり、この神殿の一番奥の部屋の神様の隣りに自分の像も作ってしまいました。この部屋には他に太陽神と暗黒神の像があります。おもしろいのは、この部屋には年に2回だけ太陽が当たり、一番左の暗黒神以外に光が当たる、特別な仕掛けのあることです。
 いったんホテルに戻って休み、夜またアブシンベル神殿に行きました。そこで音と光のショーを見ました。とても幻想的で、すばらしいものでした。ちょうどその日は日本人が多いということで、物語は日本語で行われました。
 ホテルの帰ってシャワーを浴びて、すぐにベッドにもぐりこみました。疲れていたせいか、ヤモリがいるのも忘れてぐっすり眠りました。





○ ナセル湖はアスワン・ハイダムによってできた湖なのだね。





◎ エジプトの暮らしの変化がしのばれる。











○ ガイドブックには、そんなことは書いてなかったのだろうね。






















○ 日本語も強くなったものだねえ。


エジプト紀行 4日目
 この日は、まだ日がのぼる前に出発して、アブシンベル神殿へ行きました。
 朝の神殿は夜の神殿とはどこか違って見えました。朝日が当たると、ラムセス二世の像は一体一体違っていて、にこやかなものもあれば、怒っているようなものもありました。
 ホテルに戻って朝食を食べた後、飛行機でアスワンのダウラ空港へ行きました。そこからはバスです。はじめに約50kmのコム・オンボ神殿に行き、そこから約50kmのエドフのホルス神殿に寄り、そこから約100kmのルクソールに行きました。その間、道路の舗装が悪く、ガタガタしていたので、私は気持ちが悪くなり、体調を崩してしまいました。それでも、昼食のダーヴィドパジ(ミートボールのトマト煮込み)がおいしかったので、少し食べました。エジプトでは都会の料理より田舎の料理のほうがおいしいです。 
 ホテルに着いた後はベッドで寝ていました。そのホテルは、前日のヤモリが出たホテルとは全然違って、とてもきれいでした。












○ 合計200キロか。東京でいえば、日光との間を往復したくらいの距離だね。




4日目は車酔いのせいか、名所の印象も薄かったようだ。

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  「エジプト紀行」

―― エジプト料理、ナイル川クルーズ ――

5日目は、ルクソール西岸の「王家の谷」のツタンカーメンの墓や
ハトシェプト女王の葬祭殿などに行ったが、
前日の車酔いで体調を崩して、見物どころではなく、
ツアーの一行から離れて、一人ホテルに戻って休んでいた。
「ホテルのベッドでテレビを見ていたら、
母の時代の『サイボーグ007』という日本の人気アニメを
やっていたので、びっくりしました」

エジプト紀行 6日目
 この日は、ルクソール空港を出発してカイロに戻ってきました。飛行機から降りて、すぐに「ヒエログリフ(象形文字)体験講座」に行きました。そこでパピルスのしおりに自分の名前をヒエログリフで書きました。母は世界最古のカレンダーが描かれている大きなパピルスを買っていました。
 昼食はエジプト料理のチョイスメニューで、私はトマト煮込み料理を選びました。
 午後、エジプト考古学博物館に行きました。そこで前日に行ったツタンカーメン王の黄金のマスクを見ました。しかし、部屋の前で貧血を起こして座り込んでしまいました。後でしっかりマスクを見たのですが、鳥肌がたち、呪いだと母に散々言われました。そのあと、ラムセス2世、ハトシェプト女王などのミイラを見ました。スフィンクスのあごのかけらなどもありました。
 夜、ナイル川ディナークルーズに行きました。3階建てくらいの船がカラフルに着飾ってナイル川を滑っていきます。生演奏やベリーダンスショーとともに夕食を楽しみました。ダンスのときに、同じツアーの5、6人といっしょに、踊っていたお姉さんたちに呼ばれ、イスラム系の音楽に合わせて踊りました。とても楽しかったです。


エジプト紀行 7日目
 この日はついに帰る日です。
 午前はメンフィス、サッカラ、ダハシュールのピラミッド観光をしました。ラムセス2世の、足が折れた巨像を見ました。ラムセス2世は大きく威厳があるように見えました。
 アラバスター製のスフィンクスを見た後、その近くのジョセル王の階段ピラミッドと屈折ピラミッドに行きました。ギザの三大ピラミッドに比べてかなり小さく、おもしろい形をしていました。階段ピラミッドは斜めの線がギザギザになっており、屈折ピラミッドは頂上付近の線が折れたような形になっています。
 お昼に「北京」という中華料理店に行きました。やはりエジプト風で、日本で食べる中華料理とは米が違い、味も少し違うのですが、おいしかったです。
 午後はハンハリーリバザールに行きました。とてもにぎやかで、楽しげでした。私は友だちへのおみやげにブレスレットを買い、母は折りたたみ式の机を買っていました。
 夕方、空港に行き、エジプトを飛び立ちました。翌日の昼ごろ、今度は約12時間で成田に着きました。
 体調が悪くなるなどしましたが、楽しい1週間でした。



















← どの顔も、みんな楽しげでした。




文化の違いを体感できたほか、
偏西風の影響なども実感できたことだろう。

終わりに 添削例・諸注意
 エジプトでは神の子である王(ファラオ)が中心となり、神を祀るための神殿を司る神官、行政面を支える宰相、軍事面を担当する将軍を置く官僚制をとっていた。
 エジプト史上最も有名な覇王はラムセスⅡ世であるが、その祖父のラムセスⅠ世は将軍から王となった王である。また、エジプトは何百という神を信仰する多神教国家であった。例えば、エジプト国家の最高神のアメン・ラー神は、テーベの土着神であったアメン神がエジプト全土が統一されたことに伴い、太陽神ラーと結びついてアメン・ラー神となった。神の子である王以上の存在であるとされ、多神教のエジプトにおいて、特に重要な神として神殿に祀られている。
 多くの国に文字があるように、エジプトにも文字があった。文字は象形文字から発達し、「ヒエログリフ(神聖文字)」、「ヒエラティック(神官文字)」、「デモティック(民衆文字)」の3つに分けられている。ヒエログリフは主に石碑に刻まれた特別な文字で、パピルスに手書きするときにはヒエラティックが使われた。その略字形がデモティックである。文字も分からないことだらけで、解読されていない文章がたくさんある。
 エジプトといえば、一番最初に出てくるのはピラミッドであろう。ピラミッドは石やレンガで造られた錐形建造物の遺跡である。特に有名なものは、ナイル川の左岸、カイロ西方のメンフィスにあるもので、ほとんど崩れているが、約80基現存している。現存中最大規模のものは、ギザにあるクフ王のもので、底辺の一辺が230メートル、高さが130メートルある。その他、ギザの三大ピラミッドの、あとの2つはメンカウラー王とカフラー王のピラミッドである。ピラミッドは王の墓と言う人もいるが、ピラミッドの中からはいまだにミイラが一体も発見されていないことから、別の考えをもつ人もいる。
 今年の夏にエジプトに行ったが、まだ謎はたくさんある。私はまたエジプトに行ってみたい。



























← ……最初に話題になるのは


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「奈良ツアー」

2日間の旅行であるが、3つの話に独立性をもたせるために、
それぞれに鳥観図法を用いている。


 ① 「写経」

添削例・諸注意
 2月1日、2日におばあちゃん、お姉ちゃんといっしょにツアーで奈良へ行きました。薬師寺や唐招提寺、東大寺、興福寺などを回って、いろいろな仏像を見たり、修行体験をしたりしました。その中で一番心に残ったのは、薬師寺での写経です。
 写経というのは、印刷技術がまだなかった時代にお経を手で写したのが始まりでした。また、お坊さんの勉強でもありました。1行に17文字、16行で「般若心経」というお経を書きます。半紙の下のお手本をなぞるだけなので、とてもかんたんです。
 薬師寺に着いて、一番最初に写経をしました。墨は自分ですります。筆の使い方はとても難しく、力の入れ方でにじんだり、かすれたりしました。最初はめんどうだなと思ったけど、写しているうちに夢中になってきました。
 1時間たって、次の所へ行く時間になりました。終わらない人は家で書いて、薬師寺に送ります。私は家に持って帰ろうと思いましたが、おばあちゃんが「早く書いちゃいなさい」と言って、10行以上あるのを5分ぐらいで書かされました。最後まで残って一人で書いていると、とてもあせりました。字も、何を書いているのか分からないくらい雑になりました。
 ゆっくり書いている間は、移すことに集中し、他のことを忘れられたので、とても心が落ち着きました。次に行ったときは、自分のペースでゆっくり書きたいです。







← ……始まりでした。それはお坊さんの勉強……

おしまいの段落で、体験も作文も救われている。

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 「座禅」

添削例・諸注意
 2月1日、2日におばあちゃん、お姉ちゃんといっしょにツアーで奈良へ行きました。薬師寺や唐招提寺、東大寺、興福寺などを回って、いろいろな仏像を見たり、修行体験をしたりしました。その中で一番心が落ち着いたのは、唐招提寺です。
 唐招提寺を創建した鑑真は中国の僧で、日本の僧たちに頼まれて日本に来ました。中国から日本に来る時に何度も航海に失敗し、それでもあきらめないで、やっと日本に着いた時には目が見えなくなっていました。朝廷の保護を受けながら唐招提寺を建てて、仏教を広めました。また、薬草や彫刻などの知識を伝えました。唐招提寺が建てられたのは今から約1260年前の752年です。
 唐招提寺は緑が多く、とてもきれいな所でした。唐招提寺では座禅をしました。その前に鑑真和上像を見ました。その建物の前には
 「若葉して御目の雫拭はばや(わかばして おんめのしずく ぬぐわばや)」
という芭蕉の句の札がたっていました。和上像は黄色でした。レプリカだということで、本物はもっと奥に安置されているそうです。
 座禅をする場所は、昔僧が生活した部屋を使い、僧が座り方や目の開け方、手の位置などを教えてくれました。あぐらをかくようにして座りました。最初に僧に3分座ると言われたので、3分だと思っていましたが、とても長く30分くらいに感じました。おばあちゃんは20分くらい座ったと言っていました。ふだんしないような座り方だったので、とても疲れましたが、終わった時は解放された感じで、頭がすっきりしました。お姉ちゃんは居眠りをしていました。後で聞くと、あまりに気持ち良くて、この時間が永遠に続けばいいのにと思っていたそうです。
 唐招提寺は千年以上前からある建物には思えないくらいきれいで、とてもすてきでした。座禅で「無」の気持ちになりたいので、家でも座ってみたいと思います。


陶子ちゃんは実際に座っているのかな。いつもにこやかに振る舞っている。

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 「阿修羅像」

回った順番からして、これが3番目になっているが、
書いたのは、これが最初であった。よほど印象が強かったのだろう。

添削例・諸注意
 2月1日、2日におばあちゃん、お姉ちゃんといっしょにツアーで奈良へ行きました。薬師寺や唐招提寺、東大寺、興福寺などを回って、いろいろな仏像を見たり、修行体験をしたりしました。その中で一番心に残ったのは、興福寺の阿修羅像です。
 阿修羅像は興福寺の国宝館の見学コースの一番最後に立っていました。中は広くて、寒かったです。朝8時で、あまり人がいませんでした。阿修羅像は頭に顔が3つあって、正面と左右を向いています。体は一つで、腕は六本、足は二本という不思議なかっこうをしています。身長は153センチだそうです。阿修羅像は奈良時代にできました。阿修羅はインドの軍の神です。悪い神で、悪いことばかりしていたので、王に怒られ、今は反省しているそうです。真ん中の顔は眉をひそめていて、両手を合わせています。右の顔は遠くを見ていて、左の顔はくちびりをかんでいます。阿修羅像は私には光って見えました。千年以上も前のものが今ここにあるのは、すごいことだと思いました。
 私のお母さんの友だちは、阿修羅像を見るのに2時間以上並んだというのに、私たちは少しも待たないで見ることができました。
 阿修羅は自分のしてしまったことを反省していて、えらいと思いました。私も阿修羅のように素直になろうと思います。 







← 国宝館の中にあって、見学コースの……

← 正面と右と左を……



※ 「阿修羅はインドの……」で改行する。

仏像のもつ力が伝わったのか、陶子さんは素直で明るい。

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「修学旅行」三部作Ⅱ - (小6 今泉 楓)

ユニークな修学旅行記を紹介しよう。
学校側の企画もすばらしいが、取り上げ方もすばらしい。
楓さんは八ヶ岳のふもとの北杜市に住んでいる。

なお、この3編も「鳥観図」方式によって書かれている。


 「日産自動車追浜工場」

添削例・諸注意
 5月18、19、20日に修学旅行で東京、神奈川へ行きました。鶴岡八幡宮、日産自動車追浜工場、東京スカイツリー、第五福竜丸展示館、国会議事堂などを訪れました。その中で最もよい勉強になったのは日産自動車追浜工場です。
 この工場は横須賀市追浜町にある、日産自動車を生産、輸出している工場です。1961年に誕生しました。面積は東京ドーム訳37個分あります。追浜工場は海に面していて、専用の港を持っているため、日産の他の工場で生産された自動車もここに運ばれて輸出されます。とても大切な工場です。
 追浜工場の施設は、主に東と西に分かれており、西は自動車を生産する場所、東は自動車を輸出する場所になっています。西側の敷地には、自動車の組み立て工場やショールーム、部品の倉庫などがあり、東側の敷地には、完成した自動車やキャリアカーの場所、港などがあります。

 私たちはバスから降りて、ショールームを見学し、実際に車に乗ってみました。再びバスに乗り、一度一般道に出てから、工場の周りをぐるっと回って港へ行きました。作業中だったため、バスの中から見学しました。港はとても広く、バスで回っても15分以上かかりました。港を見学した後、組み立て工場へ行きました。工場の敷地の中を通って行きました。途中に信号や踏切がいくつもあって、また、車が何台も走っていて、一般道に似ていたので、とても驚きました。
 組み立て工場では、たくさんの車が流れ作業で少しずつできてゆくのを見ることができました。たくさんのロボットや無人車、人が働いていました。よう接という作業では、1200度の熱で熱で鉄をとかしてくっつけるそうです。高い熱の中で行うため、この作業はロボットが行っていました。一方、細かい作業は人間がしていました。たくさんの工程を経て出来上がった車は、最後の工程で検査を受けます。この件さでは項目が何百もあり、全ての項目に合格した車だけが出荷されます。私たちは実際に検査が行われているところを見ました。そして、検査をするゾーンがずっと連なっているのを見て、日本の車の安全性はここにあるのだなと思いました。

 日産自動車追浜工場に行ってみて、自動車は、たくさんの人や物が関わりあって始めて私たち消費者に届けられていると分かりました。ていねいに作られ、きびしい検査に合格して出荷される自動車は日本の誇りだと思いました。






← この工場は横須賀市追浜町にあり、日産の自動車を生産し、また、輸出をしています。










◎ 初めに工場の地図が示されているので、どこをどう回ったのか、分かりやすい。

← 実際にいろいろな車に……


← 車の積み下ろしの作業中……

感動の物語のようでもある。
それは、具体的に、正直に書かれているからなのだろう。

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 「第五福竜丸展示館」

第五福竜丸は、広島、長崎の地に次いで、
3番目に放射能被害を受けた。

添削例・諸注意
  5月18、19、20日に修学旅行で東京、神奈川へ行きました。鶴岡八幡宮、日産自動車追浜工場、東京スカイツリー、第五福竜丸展示館、国会議事堂などを訪れました。その中で最も心に残っているのは第五福竜丸展示館です。
 第五福竜丸展示館は、東京都の夢の島公園にあります。この展示館は、アメリカの水爆実験によって被害を受けたマグロ漁船「第五福竜丸」を囲むように作られています。原水爆による悲劇が再び起こらないようにという願いをこめて、東京都が建設しました。

 第五福竜丸は今から約60年前の昭和29年3月1日の午前3時50分に、アメリカの水爆実験により被爆しました。太平洋でマグロ漁をしていた第五福竜丸は、マーシャル諸島のビキニ環礁の実験場所から160キロメートル離れた場所で「死の灰」と呼ばれる放射能の灰を浴びました。乗組員の一人は半年後に放射能症で亡くなりました。
 第五福竜丸は練習船として10年間使われた後、今の夢の島公園に捨てられました。それを東京都が引き取り、展示館を建てました。

 展示館では、入り口から左回りに、乗組員の生活用品や無線機、大漁旗、水爆被災に関する写真パネルなどが展示されています。また、出口付近には第五福竜丸について書かれた本や、当時の新聞を実際に読むことができます。出口を左に少し行くと、当時使用されていたエンジンを見ることができます。
 私たちは始めに外でエンジンを見学しました。エンジンはさびついていましたが、とても大事に使われていたようでした。入り口から展示館に入り、係の人の説明を聞きました。間近で見る第五福竜丸は、長さ28メートル、幅6メートル、高さ15メートルもあり、とても迫力がありました。ただ、木造漁船としては小さいほうだったそうです。
 説明を聞いた後は、班ごとに展示物を見学しました。ビンに入った「死の灰」や、被爆した直後の第五福竜丸の写真など、水爆実験の恐ろしさを語るものをたくさん見ました。そして、なぜ水爆や原爆を作る必要があったのだろうと思いました。

 第五福竜丸展示館を見学して、原水爆の恐ろしさと必要のなさを改めて知ることができました。もう二度と第五福竜丸のような悲劇が起こらないように伝えていかなくてはならないと思いました。






















核爆弾のようなむごい兵器は、決して使ってはならない。
そのことがよく伝わってくる。

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 ③ 「国会議事堂」

当初、3つ目は「八景島シーパラダイス」の予定であったが、
標準的なものも1つ取り上げておこう。

添削例・諸注意
  5月18、19、20日に修学旅行で東京、神奈川へ行きました。鶴岡八幡宮、日産自動車追浜工場、東京スカイツリー、第五福竜丸展示館、国会議事堂などを訪れました。その中で最もよい勉強になったのは、国会議事堂です。
 国会議事堂は、東京都の千代田区にあり、日本の国の政治の中心です。現在の国会議事堂は昭和11年に完成しました。建築物としても美しく、とても貴重ですが、その建物の中では日本の歴史に残る決議が行われてきました。
 国会議事堂は、中央の塔を境にして、左右対称な形になっています。また、内部のつくりも左右ほぼ同じになっています。正面から見て、左側が衆議院、右側が参議院です。

 私たちは、参議院を見学しました。最初に参議院参観者ホールへ行きました。このホールには中学生やツアーの人がたくさんいて、とても混んでいました。あまりに人が多くて、エスカレーターが混雑していたので、私たちは階段を昇って3階に行きました。地下1階から地上1階に行く階段はコンクリートの普通の階段でしたが、地上1階から3階へ行く階段は大理石で作られていて、とても立派でした。
 3階に着いて、中央広間を上から見学しました。中央広間は、中央玄関を入ってすぐの、中央塔の真下に当たる所にあります。この広間には、日本の議会制度の基礎を作った代表的な政治家の伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が立っています。
 議事堂内の壁や手すり、床は、どれも大理石や石灰岩で作られていて、とても大事な所なのだと感じました。中央広間の窓と天井にはステンドグラスがはめこまれており、日光を浴びて輝いていました。窓の下には春、夏、秋、冬の壁画が描かれていました。
 その次に、御休所を見学しました。ここは天皇陛下が休まれる部屋で、とてもきらびやかでした。天井や壁、床のいたるところに鶴や花の模様が彫りこまれていて、まるで美術館のようでした。
 最後に、参議院の議場を見学しました。議場では、議長席を中心に、議員席が半円を描いて並んでいました。議会が開かれていないのが残念でした。傍聴席の木の柱をさわってみると、とても太く、どっしりとしていて、歴史の重みが感じられました。

 国会議事堂を見学して、日本の国の政治が行われる大切な場所を知ることができました。また、この議事堂を建設した当時の、技術の高さを知ることもできました。 








○ 昭和11年→1936年

まるで名ガイドの説明を聞いているようだ。
議事堂の様子が、手に取るように分かる。

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< 番外編 >


「スイス・アルプス」(中2 向川 桜子)

 桜子さんは将来を嘱望されるスキーヤーである。
雪の季節になると、合宿と大会への出場に明け暮れる。

 この作文は、桜子さんが中1の時のアルプス滞在記である。
題は「サース フェー」と読む。

 『Saas Fee』①

はじめの作文 添削例・諸注意
 きれいな花、たくさんの木、おいしい空気など、Saas Fee は、たくさんの自然があるスイスの中にある町の一つです。空港から車で4時間のとっても小さな町です。
 私はその町へ、去年の夏、スキーの合宿で行きました。私たちがその町に着いたのは夜でした。そこでは、電気自動車しか乗ってはいけないというきまりがあると聞き、私は疑問に思いました。しかし、その疑問は次の日に解決しました。その日は時差ボケなどになっているのを治したり、両替したり、食べ物を買ったりなど、しなければならないことがたくさんあったので、スキーは滑りませんでした。私は、富山の一つ年上の友だちといっしょに町に行きました。すると、ほとんどが店やホテルで、しかも、全部のところでガーデニングをしていました。いろんな色の花がいっぱい咲いていました。町はずれの方へ行ってみると、サッカー場やテニスコート、バレーコート、バスケットコートがあり、辺り一面に広がる草原がありました。そこには牛がたくさんいました。その時、私は「豊かな自然を守るために、電気自動車にしか乗れないんだなあ」と思いました。サッカー場などでは、スキーのナショナルチームや、地元の人たちがスポーツを楽しんでいました。その後、私たちは両替をして、アイスを食べたり、スーパーで飲み物や食べ物を買ったり、洋服を見たりしました。合宿のメンバーは20人くらいで、全国各地から来ていました。私たちが泊まっているホテルは四ツ星ホテルでした。食事などもおいしくて、ラザニアは特においしかったです。私の部屋は富山の友だちと二人部屋でした。
 その日の午後からは、みんなでランニングをしながら町を探険しました。山に行くと、大きな湖があり、水車が回っていました。所々にゴンドラがあり、全部ちがう山につながっていました。ホテルに戻ってみると、私たちが泊まっているホテルにも山へと続くゴンドラがありました。
 それから、ご飯を食べて、ミーティングをしました。ミーティングでは、これからのことについて、日程などを話しました。その後、おふろに入りました。おふろから上がると、消灯まで時間があったので、友だちといろんな話をしました。それでも時間が余ったので、次の日のスキーのために早く寝ることにして、その日は寝ました。

※「ある」が重なる感じなので、「Saas Fee は、自然あふれるスイスの町の一つ」とでもしよう。
※「私はその町へ……」の文を前の段落に送って「私たちがその町……」で改行。
← 私は不思議に思いました。
※ 疑問(不思議)の解決は、もっと後の、草原のところにもっていこう。



← しかも、どの建物でも












※「合宿のメンバー……」以下の4文は第一段落へもっていく。











← これからのこと、日程などについて話がありました。

 合宿での行動を、いわば縦糸に、それに伴う風景を横糸に、とてもよい構成となっている。

書き直した作文
 きれいな花、たくさんの木、おいしい空気など、Saas Fee は、自然あふれるスイスの町の一つです。空港から車で4時間のとっても小さな町です。私はその町へ、去年の夏、スキーの合宿で行きました。合宿のメンバーは20人くらいで、全国各地から来ていました。私たちが泊まっているホテルは四ツ星ホテルでした。私の部屋は富山の友だちと二人部屋でした。
 私たちがその町に着いたのは夜でした。そこでは、電気自動車しか乗ってはいけないというきまりがあると聞き、私は不思議に思いました。その日は時差ボケなどになっているのを治したり、両替したり、食べ物を買ったりなど、しなければならないことがたくさんあったので、スキーは滑りませんでした。私は、富山の一つ年上の友だちといっしょに町に行きました。すると、ほとんどが店やホテルで、しかも、どの建物でもガーデニングをしていました。いろんな色の花がいっぱい咲いていました。町はずれの方へ行ってみると、サッカー場やテニスコート、バレーコート、バスケットコートがあり、辺り一面に広がる草原がありました。そこには牛がたくさんいました。その時、私は、電気自動車しか使わないわけが分かりました。豊かな自然を守るためなのです。サッカー場などでは、スキーのナショナルチームや、地元の人たちがスポーツを楽しんでいました。その後、私たちは両替をして、アイスを食べたり、スーパーで飲み物や食べ物を買ったり、洋服を見たりしました。
 その日の午後からは、みんなでランニングをしながら町を探険しました。山に行くと、大きな湖があり、水車が回っていました。所々にゴンドラがあり、全部ちがう山につながっていました。ホテルに戻ってみると、そのホテルにも山へと続くゴンドラがありました。
 それから、ご飯を食べて、ミーティングをしました。ミーティングでは、これからのこと、日程などについて話がありました。その後、おふろに入りました。おふろから上がると、消灯まで時間があったので、友だちといろんな話をしました。それでも時間が余ったので、次の日のスキーのために早く寝ることにして、その日は寝ました。

















◎ サースフェーの町の風景はこちらで。

 ②では、いよいよスキーのトレーニングが始まる。それにつれて、景色も高度を上げる。


『Saas Fee』②

 Saas Feeは、スキー好きにはよく知られた町であるようだ。

はじめの作文 添削例・諸注意
 スキー場へ行くには、ゴンドラを二つ乗り継ぎ、それから登山電車でスキー場へ行く。
 一つ目のゴンドラからは、町全体を見渡すことができる。とても美しい。
 二つ目のゴンドラからは、カモシカの大群を見ることができる。私たちが行けそうもない所だ。下を見ると、見れないくらい怖い。
 登山電車は、トンネルの中なので何も見えないが、スリルがあっておもしろい。
 登山電車から降りるとすぐ、急な階段をのぼらなくてはならない。標高が高いため、少しのぼっただけで息が切れてしまう。しかし、階段をのぼり終えると、辺り一面雪世界なので、心がいやされ、私のスキーモードは全開になる。
 スキー場は、着いた所よりも少し下にあるので、スキーをはいて滑って下りていく。スキー場までの道はアイスバーンで、くねくね曲がっているのでとても楽しい。しかし、途中にクレパスがあるので、注意しなければいけない。スキー場へ行く途中は、たくさんの山に囲まれているので山しか見えないが、とんがった山、丸い山など、いろいろな形をした山が見えるので、滑りながら楽しむこともできるのだ。

← ……登山電車に乗って行く。
※ 第2~4段落をひとまとめにする。 ※ 何が美しいのか。
← 大群を見ることができた。
← 行けそうもない険しい山の中だ(?)。
← 足がすくんで、見ていられないくらい(?)怖い。
※ どんなスリルか。







← スキー場へ行く道は氷河の上で(?)

 この作文の前に、桜子さんは「山」という題で、下山トレーニングのことを書いている。
それによると、近くの山に登ると、アルプスの雄峰・マッターホルン(4478m)が迫るように見えたということだ。

 なお、①が敬体で書かれているのに対し、②は常体で書かれている。
本来、文末表現は統一すべきであるが、それは一編にまとめる折にどちらかに統一することにして、
ここでは常体のまま掲載することにする。

書き直した作文
 スキー場へ行くには、ゴンドラを二つ乗り継ぎ、それから登山電車に乗って行く。
 一つ目のゴンドラからは、町全体を見渡すことができる。私が泊まっているホテルも見える。町並みがとても美しい。二つ目のゴンドラからは、カモシカの大群を見ることができた。私たちが行けそうもない険しい山の中だ。下を見ると、足がすくんで見ていられないくらい怖い。登山電車は、トンネルの中なので何も見えないが、事故が起こりはしないかと、スリルがあっておもしろい。
 登山電車から降りるとすぐ、急な階段をのぼらなくてはならない。標高が高いため、少しのぼっただけで息が切れてしまう。しかし、階段をのぼり終えると、辺り一面雪世界なので、心がいやされる。私のスキーモードは全開になる。
 スキー場は、着いた所よりも少し下にあるので、スキーをはいて滑って下りていく。スキー場までの道はアイスバーンで、くねくね曲がっているのでとても楽しい。しかし、途中にクレパスがあるので、注意しなければいけない。スキー場へ行く途中は、氷河の道の上を滑っていく。たくさんの山に囲まれているので山しか見えないが、とんがった山、丸い山など、いろいろな形をした山が見えるので、滑りながら楽しむこともできる。









※ スリルのもとは、やはりこれであったか。しかし、まあ、無事でよかった。














◎ サースフェーの町やマッターホルンの雄姿についてはこちらから。

 本編はまだ続くはずで、アルプスの自然を描くことになっているのだが、
本人はスキーの合宿や大会への出場のほか、学校行事で活躍しているため、
なかなか手がつけられないでいる。

 号外(臨時ニュース)< 秋田県中学スキー大会で2冠 > 
 続いて、東北大会では大回転で優勝、全国大会では大回転で2位となる。
 「道場日記抄」1月22日号('06)でどうぞ!

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噴水(東京・神代植物公園)