半鐘


東日本大震災


東京・多摩地方、
および
その周辺での体験記



はじめに
<第1部>
「3月11日のこと」
 ― もくじ ―




<第2部>
「地震や津波の起こるわけ」


<第3部>
「ふだんの生活への影響」


「作文ワールド」総合案内   「道場日記抄」    トップページ

作文打出の小づち
総もくじ
作文編  国語編  小論文編  閑 話



はじめに
(「道場日記抄」 ’12年3月15日より)


 千年に一度といわれる大震災から1年が過ぎた。振り返れば、道場にも少なからぬ感慨がある。
 揺られている最中は、あまりの揺れの大きさに「第二関東大震災か」と思ったものだ。
その割には、拍子抜けするくらいに物的被害はなかった。
 ところが、テレビをつけて驚いた。
震源は三陸沖、震度7、マグニチュード8.9(後に9.0)というのだ。
大津波警報が出され、ほどなく、
釜石港であったか、潮位の上がる様子が映し出され、
仙台平野のビニールハウスがどす黒い波に飲み込まれていく様子が映し出されていた。

 翌日から、生徒諸君には一人一人に、
「われわれはあの大地震と同じ揺れの上に乗っていたのだ。
歴史に残る出来事だったのだから、自分の目で見、肌で感じたことを記録しておこう」と話し、
次の章立てで書くよう指示した。

 1.3月11日のこと。
 2.地震や津波の起こるわけ(メカニズム)。
 3.ふだんの生活への影響。

 それから約1か月の間、生徒諸君はせっせと書いた。
コピーで取っておいたものを引っ張り出してみると、厚さにして2cm近くある。
いい記録ができている。同時刻に同じ揺れに乗っていたとはいっても、それぞれに状況は異なる。
 1年たったのを機に、これを順次掲載しよう。
互いの体験を知るのも、互いの参考になると思われる。

「もくじ」はこちら

 なお、東北関東太平洋沿岸の小学生・中学生・高校生に呼びかけている無料添削の『体験記』は、
このホームページには掲載しない。
公表については、生々しさもあるため、本人の意思を尊重する。
 公表しないことを約束して、
この『体験記』の無料添削は引き続き受け付けている。
 



<第1部>「3月11日のこと」

その時、生徒諸君は一人一人どこでどうしていたのだろうか。
取りあえず、「授業中」「部活中」「帰宅途中」「帰宅後」の
4つに分けて順次紹介しよう。
学年は震災当時のもので、
書いたのはたいていは次の学年にまたがっている。

1回に1〜2編、1週に3〜4編を掲載する予定である。


も く じ
その1.授業中 その2.部活中 その4.帰宅後
1.琴美さん(小3)
 (東京・府中市)
2.洸太くん(小5)
 (東京・国分寺市)

3.ひなのさん(小5)
 (埼玉・入間市)
4.萌香さん(小6)
 (東京・板橋区)

5.太一くん(中1)
 (東京・国分寺市)
6.拓生くん(中1)
 (東京・東大和市)

7.海路くん(中1)
 (東京・調布市)
8.大陸くん(中2)
 (東京・調布市) 
9.さらさん(小6)
 (東京・多摩市)
13.咲歩さん(小5)
  (東京・東村山市)
14.日菜さん(中2)
  (東京・東村山市)

15.悠くん(小3)
  (東京・国分寺市)
16.光亮くん(小5)
  (東京・国分寺市)

17.瑠智慧さん(小3)
  (東京・国立市)
18.笑さん(小3)
  (東京・国立市)
その3.帰宅途中
10.樹里さん(小5)
  (東京・国分寺市)
11.三鈴さん(小5)
  (東京・小金井市)

12.夏実さん(中2)
  (東京・武蔵野市)


東日本大震災… 「3月11日のこと」

その1(授業中)

たいていの諸君は1〜2度書き直している。
ここでは、その最終のものを紹介する。


琴美さん(小3、東京・府中市)

 3月11日、私は学校で強いゆれを感じた。こんな強いゆれは、生まれてからはじめてだ。先生はすぐに、大きな声で「つくえの下にもぐりなさい」と言った。上を見上げると、けいこうとうがゆれている。落ちてきそうで、とてもこわかった。ゆれがおさまると、児童は校庭にひなんした。先生は「宮ぎ県は今すごくゆれている」と言った。少したって、教室にもどって帰りのしたくをした。
 帰るじゅんびをしてかえろうとすると、またゆれた。まだ余震がくると思うと、こわくなって、ランドセルをほうりなげて、つくえの下にもぐった。この日は地区はん下校となった。わたしのマンションはとても大きいマンションで、家の中が大変なことになっているだろうと先生が言った。
 家に帰ると、ザリガニの水そうがたおれていなかった。「家が1階でよかった」と思った。9階の家ではしょっきだながたおれ、13階の友だちの家はメチャクチャということだった。
 その日の夜、テレビでいろいろなえいぞうを見た。宮ぎ県や岩手県では、つ波ですごいひがいをうけていた。家、車、板などが流されている、すごいえいぞうばかりだった。いちばんすごいと思ったのは、つ波が「わあ〜」といういきおいで家や車をのみこんでいったえいぞうだ。つ波が来ているのに走っていて、つ波にのまれそうになった車もあった。
 次の日もニュースをずっと見ていた。ひなん所で食りょうが少ししかなく、寒い所でくらしている人がたくさんいた。こんな生活がいつまで続くのだろうと思った。












← わたしの家はとても大きいマンションにあるのだけど、家の中が……



琴美さんは「琴ちゃん」のサイトで活躍している。



洸太くん(小5、東京・国分寺市)

 3月11日、6時間目の総合の時間に、小さな揺れがあり、その後急に大きく揺れ始めました。すぐに机の下にもぐりこみましたが、しばらく大きな揺れが続きました。揺れがおさまった後、授業は中断され、すぐに帰る用意をしました。校庭に避難して、集団下校で帰りました。
 家に帰ってテレビをつけると、ニュースで津波の様子を映していました。田んぼの上を黒っぽい波がすべるように流れてビニールハウスを飲み込んでいました。
 缶詰などで軽い夕食を済ませ、リュックに缶詰やお金、お菓子、懐中電灯などを詰めました。落ちてきそうなものを取り外して、、それから寝ました。しかし、夜中にも何度か余震があったので、まんじりともできませんでした。











← 落ちてきそうなものを、母といっしょに取り外して、


洸太くんは、ふさわしい表現を探して、
大好きな電子辞書とにらめっこをしながら書いていた。

もどる


ひなのさん(小5、埼玉・入間市)

 3月11日に大きな地震が起きました。その時、私は教室にいて、みんなと3月末に行われる「お楽しみ会」について計画を立てていました。揺れが起きてすぐ、私たちは机の下にもぐりこみました。机が小さいので、体を小さく丸めているのが大変でした。私の近くの友だちが気持ちが悪いと言ったので、私は大きな声で先生を呼びました。先生はすぐかけつけて、友だちの状態を確認していました。私は、だいじょうぶかな、私も気持ち悪くなったらどうしようと心配になりました。先生は「よったんだね。だいじょうぶだよ」と言いました。私はほっとしました。
 それからしばらく揺れが続いていたので、机の下にもぐりこんだまま、いろいろなことを考えていました。ふと、私たちが今いる校舎のことが不安になりました。私の学校では5年生だけが校舎が違うのですが、この校舎はとても古く、まだ耐震工事をしていませんでした。そのため、今年建て替えることが決まっていました。私はこの校舎はつぶれるのではないかと怖くなりました。もう私は死んでしまうのではないかと思いました。私はこの校舎から逃げ出したくなりました。しばらくすると、地震はおさまりました。
 私は避難訓練のときはいつも、きっと地震や火事は起こらないだろうなと思っていました。でも、今起きたのです。私はこの時、避難訓練の大切さに気づきました。
 家に帰って、ニュースを見ると、津波が田んぼを飲み込んでいました。押し寄せる波の中には車や家が浮かんでいました。畑が次々に飲み込まれているのを見ると、声も出ませんでした。




















← ……怖くなりました。揺れが大きいので、もう私は死んでしまうのではないかと……


大きな揺れを、木造校舎の中で耐えているのは、
相当の恐怖だったことだろう。


萌香さん(小6、東京・板橋区)

 3月11日(金)、私は学校で6時間目の図工をしていました。2時45分ごろ、体が少しゆれているような気がして、窓のほうを見ました。カーテンが少しゆれていたので、私は先生に地震だと伝えました。その瞬間、大きなゆれがきて、先生はみんなに大声で、机の下に入れと言いました。私はあわてて机の下にもぐりこみました。防災頭巾は教室にあって、手元にはありませんでした。大きなゆれが長い時間続きました。家にいるお母さんが何か物につぶされているのではないかと心配になり、泣きそうになりました。
 ゆれがおさまって校庭に避難したとき、お母さんが迎えに来てくれたので、その姿を見てほっとしました。妹もいっしょに3人で家に帰るとちゅう、お母さんは家の中がガラスの破片やいろんな物でうまっていること、また、お父さんや福島のおじいちゃん、おばあちゃんと連絡がとれないことを心配そうな声で話しました。
 私の家は、2階建ての鉄筋の建物に後付けで建てた木造の家です。3階なので、家の中はコップやお皿が落ちていて、足の踏み場がなく、とても危ない状態だいうことで、お母さんが家の中を片づけている間、私と妹は1階に住んでいるおばといっしょに、近くに住んでいるおばあちゃんの家に歩いて行きました。おばあちゃんの家はお風呂屋さんです。本が少し落ちているぐらいでほとんど無事でした。
 私と妹はお父さんのけいたいに電話をしました。なかなかつながらず、何十回目かにやっとつながり、お父さんの無事を確認することができました。その後、お母さんから福島のみんなが無事だったと連絡があり、私たちは少し安心しました。
 夜になって、家に帰ってテレビを見ると、大きな津波が押し寄せる中を、すごいスピードで走って山のほうへ逃げていく車を見ました。たくさんの家が一瞬のうちにくずれていく映像も見ました。気仙沼という町が火の海になっていました。最初は、何がどうなっているのか分かりませんでしたが、津波のすごさを見ていると、涙が出そうになりました。
 東京では電車がほとんど止まってしまいました。帰れなくなったなった人は会社に泊まり込んだということです。私のお父さんは車で通っているのですが、道路は大じゅうたいで、帰ってきたのは夜中でした。
← 私は図工室で工作を……















○ お父さんの会社は都内の大田区にあって、おじいちゃんたちは白河市に住んでいるのだね。

あの日は多くの帰宅困難者が出、大渋滞が起きたが、
その一端をここから窺い知ることができる。


もどる



太一くん(中1  東京・国分寺市)

 3月11日、金曜日の3時ごろ、6時間目の音楽の授業を受けているときでした。少し小さな揺れを感じました。「ああ、地震だな」と思い、いつもと同じ弱い揺れだと思ったので、あまり気にしませんでした。ところが、揺れがどんどん大きくなってきたので、たまたまそこが音楽室だったので、僕はあわててピアノの下にかくれました。他の人も何人かそこにかけこんできました。ものすごく強い揺れが学校全体を襲っていました。その強い揺れは1分たってもおさまらず、「もう地球は終わりだあ」と心の底から思いました。強い揺れは3分ぐらいたっておさまりました。
 そのあと、みんな校庭に避難しました。1秒でも早く外に出ようと、先を争って走る人もいれば、人の背中を押しながら、いっしょに出ようという人もいました。全員が校庭に避難しても、揺れを感じるほどの余震がいくつかありましたが、上から落ちてくる物がなかったので、安心して立っていられました。
 家に帰る途中、僕は家のことが心配になってきました。食器が割れていないか、タンスが倒れていないかなど、いろいろ気がかりでした。しかし、家の中には変わったことが何もなかったので、安心しました。家には姉がいて、テレビを見ていました。やはり、地震のことがいろいろ放送されていました。地震のことだけでなく、津波の様子も映っていました。はじめは「津波のことなんて、どうでもいいや」と思っていましたが、とんでもないことが起こっていました。
 船が津波に乗って町に押し寄せたり、津波が町に流れ込んで家を壊したりしていました。震度7、マグニチュード9.0、津波の高さは7.8メートルと聞いたときは、あまりのすごさに驚いて、ご飯がのどを通らなくなりました。夜には気仙沼の町が奥のほうまで火の海になっていました。
 母は、電車が止まってしまったので帰れず、その日は都内の会社に泊まりました。








← ……襲っている感じでした。


電車が止まったために、歩いて帰る人も大勢いたが、
お母さんも帰宅困難者の一人だった。


拓生くん(中1 東京・東大和市)

 3月11日午後2時46分、宮城県沖でマグニチュード9.0の地震が起きた。最初に発表されたときはマグニチュード8.0だったが、後から8.8と訂正され、それも違っていて最終的に9.0に落ち着いた。
 僕はそのとき、学校で6時間目の社会の授業を受けていた。地震が起きたとき、始めは小さな揺れで、クラスの皆はあまり騒がなかったが、途中からものすごい揺れがきて、校内放送が流れ、一時机の下に入った。その揺れはかなり長く続き、クラスの男子は楽しそうにしていた。揺れが小さくなってくると、皆机の下から出てきたが、一部の女子はすごく怖がって、なかなか出てこなかった。先生が「もう授業を終わろう。あと1つの単語をノートに写したら、終わりだ」と言って、黒板に「ジャガイモ」と書いた。食物の話の途中だったからだ。そこで皆が笑い、緊張がほぐれた。
 再び校内放送が流れ、さっきの揺れは震度5だということが分かった。放送が終わると、先生は地震の話をしてくれた。学校などの公共施設は、かなり大きな地震でも倒れないような耐震強度をもっていること、あの阪神・淡路大震災でも公共施設は倒れなかったことなどだ。先生が話している間にも余震があり、一部の女子はかなり怖がっていた。男子は楽しそうにおもしろがっていたが、正直、その時は、大惨事が起きているとは思っていなかった。
 家に帰ってテレビをつけると、津波がすごいスピードでビニールハウスや家を飲み込んでいくところが映し出されていた。震源が海底だったから津波が起きて、たくさんの人が津波で流されたようだということだった。


その夜の時点では、もちろん災害の程度は分からなかった。


もどる



同じ揺れの上にのっていても、
生徒諸君はそれぞれに違った体験をしている。

被害の出た学校もあった。
兄弟の例を紹介しよう。

海路くん(中1 東京・調布市)

 3月11日に大地震がありました。地震が起きたとき、僕は学校で国語の授業を受けていました。
 隣の友だちが「あっ、地震だ」と言いました。それを聞いて、僕は地震に気がつきましたが、まだ初期微動でした。突然、それが大きくなりました。あまりに大きい揺れに、女子は叫び声を上げていました。窓が揺れ、天井の扇風機が落ちてきそうでした。先生の指示で机の下にもぐりました。しばらくすると揺れがおさまってきました。少しホッとしていると、またすぐに大きな揺れがきました。その後、もう一度大きな揺れがきました。ようやく地震がおさまり、授業を中断して、家に帰ることになりました。帰りのあいさつの時に、先生が「今の地震は東北のほうで起きて、震度は7、調布は震度5だった」と言いました。それを聞いた時、僕はとても恐ろしく、怖くなりました。
 家に帰ると、家には誰もいませんでした。家の中は想像していたよりも散らかってなく、引き出しが少し開いているぐらいでした。テレビをつけてニュースを見ると、津波による被害が中継されていました。津波から逃げる人々、津波によって起きた住宅街を流れる濁流、など、様々な映像が目に飛び込んできました。
 一番印象に残った映像は、津波が堤防を越えて水が町に流れ込み、町の奥深くまで流れて、その流れに乗って家が丸々流れていくところでした。 

中学生ともなると、集団下校などはないようだ。
兄弟でも別々に帰っている。


大陸くん(中2 東京・調布市) 

 3月11日に東日本大震災がありました。僕はその時、学校で6時間目の歴史の授業を受けている最中でした。クラスで最初に地震に気づいたのは僕だったのですが、始めは小さな揺れだったので、先生も含めてみんなが机の下に隠れるようなことはしませんでした。しかし、突然、とても大きく激しい揺れになりました。先生の指示で、すぐに机の下に隠れて地震が治まるのを待ちました。しばらくして大きな揺れが治まり、机の下から出てみると、教室の中や校庭の光景が一変していました。教室のいたる所にひびが入っていて、黒板が大きく傾いていました。また、校庭を見ると、プールの一部が壊れて、校庭一面に水があふれ出ていました。その時僕は「ただの地震ではないぞ」と思いました。後から聞いたところによると、東京で観測された地震の大きさは震度5弱でした。
 その日の授業は全学年中止になり、すぐに帰宅となりました。家に帰ると、リビングの花びんが落ちて、床が水びたしになっており、僕の部屋では本棚の本が全部床に落ちていました。すぐにテレビをつけたところ、全てのチャンネルで同じ震災のニュースを流していました。特に、岩手県を含む東北の津波の様子を見たときは息を飲みました。津波が町や田んぼ、空港などを次々に襲っていました。夜になって、火の海になっている港町の様子が映し出されていました。千葉県でも石油タンクが火災を起こして燃え上がっていました。
 この地震では、津波によって引き起こされた事故が印象に残っています。





















← どのチャンネルでも地震のニュースを……


兄弟でも学校や家の中で目にしたものは違うようだ。


もどる




その2.(部活中)


さらさん(小6 東京・多摩市)


さらさんの学校はJR中央線沿いの武蔵野市にあり、
同市は都内の杉並区に隣接している。
自宅のある多摩市は南方の多摩川を越えた所にある。

 小学校最後の部活動中に、巨大地震が起こりました。私たちは体育館でバレーボールをしていました。体育館は、バドミントン部と共同で使います。
 突然、バドミントン部の先生が「壁に寄れ」と言いました。天井でバスケットバールのゴールががたがた揺れていたので、地震に気がつきました。部員たち、それに、先生方もみんな壁に寄りました。大きな揺れになったので、私たちは床に座り込み、揺れがおさまるのをじっと待ちました。5分くらいして揺れがおさまったので、5,6年生はグラウンドに集まりました。1年生から4年生までは帰宅途中でした。
 グラウンドの端のほうには100メートルぐらいにわたって地割れが起きていました。5年生は相撲場の土俵に集まり、6年生は校舎と校舎の間の通路に集まりました。余震もおさまると、事務の方が毛布と砂糖湯を用意してくださいました。1人1カップの砂糖湯を飲み、2人で1枚の毛布にくるまりました。夕方、グラウンドで事務の方と先生方がいっしょになって炊き出しが始まり、私たちはご飯を食べました。
 電車が止まっていたので、学校に泊まることになりましたが、親が迎えに来た人は帰りました。私は家が遠いので帰れないと思っていたら、友だちのお母さんが家に来てもいいと言ってくれたので、車に乗って友だちの家に行きました。友だちの家は近くの杉並区にあり、その家の近くに兄の学校の野球のグラウンドがあったので、兄もそこに合流しました。
 友だちの家に着いて、ようやく母と連絡が取れました。母はあの時、新宿のデパートの地下で買い物をしていました。急に揺れたので、地下のシャッターが閉まって閉じ込められてしまいました。幸い、係りの人が開けてくれて、なんとか出られました。新宿にはおばあちゃんが住んでいるので、その日はそこに泊まりました。父は府中の会社にいました。社員の泊まるところを探したり、会社の鍵を閉めたりしなければならなかったので、最後まで会社にいました。家に帰ろうと車に乗りましたが、途中の橋が通行止めになっていたため、母のいる新宿のおばあちゃんの家に行くことにしました。いつもなら1時間ぐらいで着くのに、6時間余りかかったということでした。
 次の日の朝、電車が動いていたので、家に帰りました。家の中は何の変化もありませんでした。お風呂場のドアがスライドして少し空いていたくらいでした。





































○ 府中市は多摩川をはさんで、多摩市の対岸、つまり、武蔵野市や都区内の側にある。

ちなみに、中央線を都内とは反対の西に行くと、
小金井、国分寺、国立、立川市があり、
国分寺の南に府中市、そして、多摩市がある。

もどる




その3.帰宅途中


10樹里さん(小5 東京・国分寺市)

 3月11日、金曜日、午後2時45分ごろ大きな地震がありました。その時、私は国立駅の改札口を出て、バス停へ歩いているところでした。ゆれが来たとき、私は自分の頭がおかしいのかと思いましたが、電線がゆれていたので、もしやこれは、と思ったとたん、大きなゆれが来て、地震に気づきました。私は歩道の上でゆれがおさまるのを待っていました。いつもの地震なら、ちょっとのゆれでおさまるのに、この時は大きなゆれが3分ぐらい続きました。
 いつもは母が車で送り迎えしてくれるのですが、この日は朝、バスで帰ると約束してあったので、バス停に行くと、バスが止まっていました。乗れそうだと思ったとき、母から電話が入りました。迎えに行こうかと言いましたが、私は、バスは動いていると答えて、バスに乗りました。
 家に帰ると、母は「うわぁっ」というような、変な叫び声を上げました。私は母の顔を見て、ほっとしました。私はやっぱり、ずっと怖かったのです。すぐテレビをつけて、情報を確認しました。このあたりの震度は5でしたが、東北地方では震度7、マグニチュードは9.0ということでした。その後も何度か余震があって、そのたびに怖くなりました。晩ご飯とお風呂を早くすませ、その日はテレビも見ないで、早く寝ました。


JR中央線はすぐに止まってしまったから、
危ういところだった。また、
電話が通じたのは、万に一つの幸運だった。


11三鈴さん(小5 東京・小金井市)

 3月11日、午後3時ごろ、大きな地震がありました。私は、たまたま学校が早く終わって、その時は家に帰る途中で、近道となる栗林に友だちと2人でいました。その日は曇っていて、私は雨が降るのではないかと思っていました。すると、フェンスや鉄条網がカタカタとゆれ始めました。私は、やっぱり雨が降ると思ったのと、少しうす気味悪かったので、友だちに「早く帰ろ」と言って、走りました。Y字路で友だちに「じゃあね」とと言って別れようとしたとき、ぐらっとゆれて、立っているのがやっとでした。地震車で体験したことは何度もあるのですが、その時は道路に立っていたので、つかまるところもなく、とてもこわくなりました。ゆれがひどくなってきたので、この世の終わりのような気持ちでした。友だちも私も、家はそこからすぐだったので、家の中はだいじょうぶだろうか、みんなはどうしているだろうかと思い、友だちに「気をつけてね」と言って別れ、片足ずつ大またでジャンプしながら帰りました。
 帰ってみると、本が2、3冊落ちているだけでした。大げさに考えていたのがはずかしくなりました。大きいゆれは一度おさまりました。ほっとするとともに、ジャンプしながら帰ってきたせいか、頭が少しくらっとしました。
 家の中では、父がとてもあわただしそうにしていました。いつもだったら、私が「防災バッグを作ろうよ」と言っても返事もしないのに、この日は家中のかい中電灯を集めたり、給水バッグに水をためたり、また、裏口からどろぼうが入って来ないように付けたじょうを取り外して非常口にしたり、停電に備えておにぎりを作ったりしていました。
 テレビでニュースを見ると、この日の震度はこのあたりで5弱、東北地方で7、マグニチュードは9.0ということでした。


東北地方の状況を知って、もう一度大きな揺れがくると、
誰もが思ったことだろう。少なくとも、
停電が起きるなど、ライフラインが断たれる危惧はあった。

もどる



その日、生徒たちはいろいろな状況に置かれていたが、
こんな例もある。


12夏実さん(中2 東京・武蔵野市)

夏実さんはJRと私鉄を乗り継いで、世田谷区の学校に通っている。
そこから最も近いJR山手線のターミナル駅は渋谷で、
北に新宿や池袋がある。

 3月11日に地震が起きたとき、私は友だち2人と池袋のカラオケ館にいました。
 私たちは曲に合わせて踊っていたので、地震が起こっていても気がつかなかったのですが、だんだん揺れが大きくなってきて気がつきました。最初、私たちの個室の隣の部屋にいた人たちや、同じ6階にいた大人たちが次々と逃げていくため、私たちも逃げようとしましたが、まだ揺れている間は動かないほうがいいといいと思って、個室でじっとしていることにしました。その後すぐに両親と連絡を取り合い、無事を確認しました。家族全員が無事だということは分かったのですが、連絡を取り合っているうちに、JRが全線止まっていることを知って、私たちは帰れなくなってしまいました。
 私たちは気をまぎらわせるために、自分が好きな曲や、元気の出そうな曲を歌い続けました。ipodでラジオを聞いたり、ワンセグでニュースを見たりして、外の様子は分かっていたので、不思議と怖くはありませんでした。
 本来、中学生はカラオケ館には6時までしかいさせてもらえないのですが、ここを出ても帰れないし、両親も来ることができないので、友だちのお母さんが店長さんに連絡を取り、両親が来るまでいさせてもらうことになりました。その時はもう8時をまわっていて、今日中に帰ることはできないと分かっていたので、友だちと普段はできないような話や、自分が中学に車での自分のことなどを話しました。
 午後11時ごろ、客が混んできたということで、私たちは地下の宴会場の中の一番広い部屋に移されました。こんなに広い部屋はめったに見られないということで、そこで記念撮影をしたり、「ドーン、じゃんけんぽん」という遊びをしたりしました。ついに午前0時をまわって、することがなくなってしまったので、家から持ってきた本やマンガを読んで時間をつぶしました。
 午前2時半ごろ、私の父が到着しました。店長さんやお世話になった店員さんにお礼を言って、友だち2人もいっしょに、もうすでに動いていた地下鉄で渋谷の父の職場に行くことにしました。父の職場に友だちの両親が来て、私たちはやっと自分の家に帰れることになりました。友だちと別れて、父の車で家に着いたのは、午前4時でした。
 その日は家に帰れなくて、ほんとうはパニックになるところでしたが、仲のよい友だちといっしょにいるということが心の支えになって、落ち着いていられたのだと思います。
 


























← ……と分かってきたので、


「帰りに盛り場でカラオケ」となると、家に帰って、
こっぴどく叱られたであろうが、
意外に、行動は健全であることが読み取れる。
ショッピングをする程度の気分なのだろう。
しかし、
魔の手は、やはり気にかかる。

もどる



その4.帰宅後


まず、姉妹の場合から。
2人とも近隣市の学校に電車で通っている。


13.咲歩さん(小5 東京・東村山市)

 3月11日、授業が午前中に終わったので、私は弁当を食べてから学校を出ました。
 家に帰ると、姉が1人でいました。私はランドセルや制服を片づけて、ゆかに座ってお菓子を食べていました。その時、姉が
「地震!」
と言いました。私はすぐ、机の下にもぐりました。いつものように、震度2か3だろうなと思っていたら、けっこうゆれてきたので、ストーブを消しました。ゆれているときは、姉がいっしょにもぐってくれました。
 地震がおさまると、姉がテレビをつけました。すると、東京は震度5だったので、びっくりしました。今までで一番大きかったと思ったのに、震度5だったからです。ところが、宮城や岩手などの東北地方では震度7、マグニチュード8.8ということでした。やっぱり大きかったんだなと思いました。地震の30分後に、東北では津波が押し寄せてきました。画面では、津波が畑やビニールハウスを飲み込んでいくところや、家をのせて流れていくところが映っていました。
 夕方の7時のニュースは放送局の部屋がゆれている映像から始まりました。宮城のほうでは東京よりものすごく大きくゆれて、屋根や壁がはがれる状態でした。私の家では、2階の本棚から本がバラバラに落ちていました。それ以外に被害はありませんでした。
 小さい時にサマーランドのプールに行って、波のプールに入ろうとしたとき、姉が前のほうに行ってしまったので、私は波がこわくて入れませんでした。津波を見て、そのことを思い出しましたが、津波のすごさを見て、私の気持ちはすくんでしまいました。とてもこわかったです。
 ニュースでは死者や行方不明者のことが報じられています。私は、地震でどのくらいの被害があったのかをしっかり記録しておこうtp思います。


同じ部屋の中で、お姉さんはどう感じていたのだろう。


14日菜さん(中2 東京・東村山市)

 3月11日、学校が4時間授業だったので、私は2時には家に帰っていました。間もなく妹も帰って来ました。2人でおしゃべりをした後、私はそろそろ2階に上がって勉強しようと思いましたが、お菓子を食べてからにしようと思い、妹と2人でお菓子を食べました。食べ終わって2階へ行こうとしたその時、家がミシッと音をたてて、クラッと揺れました。私は寝ていても地震の揺れに気付くほど地震に敏感なので、その時もすぐに地震だと分かりました。妹に「地震だ!」と言ったけれど、いつものように震度2ぐらいの地震だろうと思ったので、ふつうに座っていました。しかし、地震はおさまるどころか、ますます強く揺れました。
 さすがにこれはただの地震ではないと思い、妹と机の下にかくれました。家中がミシミシ、ガタガタと音をたてていました。揺れはなかなかおさまらず、グラグラ揺れていました。妹がとても怖がり、私は頭の中が真っ白になってしまいました。今まで経験したことのない地震の大きさと恐ろしさで、何が何なのか分からなくなってしまいました。その時、最近社会の授業で学習した「地震」について思い出しました。災害の時に最も大切なのは自助、共助、公助だということです。この中で、今は防災の原点である自助をしなくてはいけないのだと思いました。あわてて外に出てはいけない、まずは落ち着いて机の下にもぐり、自分の身を守る。私は何度も「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と妹に言いました。言っているうちに自分自身も落ち着いてきて、揺れも小さくなってきました。
 揺れがおさまったので、テレビをつけました。テレビ局の人が「ただ今地震が発生しました。かなり大きな揺れです」と言っていたので、私たちだけが揺れを感じたのではないと分かり、少し安心しました。東京は震度5だったと知って、改めて地震は怖いなと思いました。震源は宮城県沖で、震度7、マグニチュード8,8(後で9.0と訂正)と知って、東北地方はどのくらいの揺れだったのだろうと思いました。しばらくすると、祖母が帰ってきました。母や祖母に何回電話をしても通じなかったので、ほっとしました。大きな揺れはおさまっても、震度2か3くらいの余震が続きました。揺れるたびに、あの大きな揺れを思い出して、妹と私は机の下にかくれました。
 とても怖い思いをした一日でした。私は、今回のような大きな揺れを感じたのは、生まれて初めてでした。しかし、学校で学んだことを思い出して、落ち着くことができました。地震について学んでおいてよかったと思いました。ただ、私の家では物が少し落ちた程度でしたが、大地震と津波に襲われた人たちはどうしているのだろうと心配になりました。


避難訓練のみならず、防災教育の必要性も痛感させられる。。


もどる


15悠くん(小3 東京・国分寺市)

これを書いたのは3年の夏ごろであるが、
地震の当時、悠くんは2年生だった。

 3月11日、ぼくは学校から帰って、おかしを食べていました。いきなり大きな地しんがきて、びっくりしました。ぼくはあわててテーブルの下にもぐりました。お母さんは2階へ上がろうとしましたが、立っていられなくて、テレビのリモコンを持って、ぼくのとなりにもぐりこみました。
 地しんが小さくなって、お母さんは2階へかけていきました。ぼくはあとについていきました。妹のふとんの上に、ものほしざおが落ちていました。妹はすやすやねむっていました。
 下におりて、テレビをつけると、東北地方で大きな地しんが起きたと言っていました。大きな津波が来るから早くひなんするようにと言っていました。自分の所よりもっと大きな地しんが起きたと聞いて、びっくりしました。
 夜、お父さんに電話すると、「会社にとまる」と言いました。お父さんの会社は、さい玉けんの川口という所にあって、電車が動かなかったからです。
 ちょうどその日、お母さんの妹に赤ちゃんが生まれました。地しんの起きる、ちょっと前だったそうです。もうちょっとおそければ大へんだっただろう、よかったなあと思いました。


悠くんには思いやりの気持ちがあるから、
妹や叔母さんのことが印象に残っているのだろう。


16光亮くん(小5 東京・国分寺市)

 3月11日、ぼくは学校で気持ちが悪くなって、1時30分ごろ早退していました。
 2階の自分の部屋で、1時間近く寝っころがっていたら、いきなりグラグラと家がゆれました。「あっ、地震だ」と思いましたが、そんなに気にしませんでした。いつになっても地震がおさまらないので、「変だな」と思いました。だんだんゆれが強くなってきたので、念のため、勉強机の下に入りました。様子を見に来ていたお母さんも入りました。そのとたん、机の上の物やたなの物がほとんど落っこってきました。お母さんの顔はこわばっていました。
 しばらくゆれていて、少しおさまってきたので、1階のおじいちゃん、おばあちゃんの所へ行きました。お母さんは妹をむかえに学校へ行ったので、ぼくはおじいちゃん、おばあちゃんとテレビを見ていました。テレビには津波が押し寄せる様子が映っていました。ぼくは「これが今、同じ日本で起きていることなのか」と思いました。でも、ほんとうのことでした。黒い波が畑の上に押し寄せて、次々にビニールハウスや家、車を飲み込んでいくのを見て、ぼくはつらくて涙が出そうになりました。
 ぼくはまだ熱があったので、早く寝ましたが、お父さんは、電車が動かなかったので、その日は会社に泊まったということでした。
 東北のことを考えたら、こっちの地震などはどうってことはないと思いました。


以上の4編はふつうの住宅(一戸建て)でのことである。



マンションではどうだったのだろうか。

17瑠智慧さん(小3 東京・国立市)

 3月11日、私は学校の帰りにマンションのエレベーターにのっていました。その時が地震の始まりでした。私が4階のボタンをおした時にゆれてきました。エレベーターの中では円をかくようにゆれて、目がまわってきました。エレベーターは4階で止まって、私は家に着きました。エレベーターはそのままそこで止まりました。私は出られてよかったなと思いました。
 家に入ると、母は妹の保育園におむかえに行く時で、すぐに出かけました。階段を歩いて下りていったようです。私は下の妹とテレビでニュースを見ていました。とてもひどいじょうたいで、地面がわれていたり、電信柱がたおれていたりしていました。信じじられないほどで、びっくりしました。
 母が妹と帰ってきて、4人は無事でした。でも、父だけは、夜になっても帰ってきませんでした。電車が止まってしまったためです。父は大学の自分の研究室に泊まって、次の日に元気よく帰ってきました。私は、家族全員そろったので、ほっと安心しました。
 父が帰ってきた日に、東北地方はどうなっているか知りたくなり、テレビでニュースを見ました。すると、昨日とはちがい、津波の現場がうつっていました。ある人がとったえいぞうで、津波やひなん所(小学校や中学校の体育館)がうつっていました。津波のえいぞうでは、人々が高台ににげていった後、津波が家といっしょに高台にせまって、今にもみんなが波につれていかれそうな感じでした。ひなん所では大ぜいの人たちがいたのに食べ物や飲み物がないということでした。
 私には、これが初めての地震でした。私の家には津波が来なくてよかったと思いますが、なくなった人たちのことを考えると、気のどくでたまりません。


エレベーターというのは、四角い筒の中を上下に動いているのだと思っていたが、
場所によっては相当の空間もあるようだ。


18笑さん(小3 東京・国立市)

 2011年3月11日、合唱団の練習をして帰りました。
 家に帰って、いつもどおりに服をきがえました。すると、とつぜん家が大きくゆれ始めました。その時は、ちょうど妹がようち園を休んでいて、お母さんもいました。私の家はマンションの8階にあります。お母さんも生まれてはじめての大きな地しんだったそうで、一番あわてていました。ゆれている間、
「ドア開けて」
「まど開けて」
「テレビつけて」
と、ずっと言っていました。いつもなら、「テレビけす」としか言わないのに、「テレビつけて」と言われたのは、はじめてでした。
 テレビをつけると、日本地図の海岸線に赤や黄色の線がついていて、東北地方は赤白でした。これは「早く高台ににげなさい」という印です。
 おばあちゃんの家にタクシーで行こうとして、お母さんはパソコンなどの荷物を持って、私は3DSや水とうを持って外に出たら、駅のタクシー乗り場に、いつもなら多くても10人なのに、今日は50人以上いました、しかたがないので、歩いていきました。
 15分ぐらい歩いて、おばあちゃんの家につくと、おばあちゃんは、
「この家は古いから、マンションのほうが安全よ。あんたたちのマンションは、阪神大震災の後に建てられたのだから、耐震構造になっていて、震度7でもだいじょうぶなのよ」
と言ったので、重たい荷物をもう一度持って、すぐ家に帰りました。
 お父さんは、電車が動かなかったので、そのまま病院にとまりました。
 私の家族や知り合いは、みんなけが一つしていませんでした。でも、津波がきた地いきの人たちは、とても気のどくでした。

後になってみれば笑える話でも、あの時は先の読めない不安の中で
誰もが必死だった。特にお母さんたちは。
その様子がよく描かれている。ヒューマニティーが感じられる。


以上で、第1部終了。
同じ揺れの上でのそれぞれに異なる体験を読み合わせると、
一つの大震災像が浮かび上がってくる。

第2部の「地震や津波の起こるわけ」と
第3部の「ふだんの生活への影響」は こちらへ。

もどる

大震災後のスーパーの棚

震災後の、道場の近くのスーパーマーケットの棚の様子(3月16日)。
カップ麺がすっかりなくなっている。
ペーパー類も同様だった。第3部のフッター(最下段)参照。

もどる