フジ棚(栃木・足利)

そのときどきの話題、当ホームページがぜひ伝えたいこと、新しい試みでご覧願いたいことなどを書き記していきます。

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いろいろな話


番号単位で
上に書き加えていきます。
1.平和の灯 (To the world)
2.〜13.(別ページ)
14.「グルメ・バラ肉」
15.「俳句かるた」の誕生秘話
16.「百人一句・古今名句百選かるた」
17.ある出版祝賀会
18.25年ぶりに見つかった『俳句かるた』
19.アイドル誕生
20.作文コンクール「税の作文」
21.ある出版祝賀会 − その2
22.インタビュー「登山家山野井夫妻の生き方」

23.『千曲川のうた』郷愁の昭和20年・30年代

No.2〜13へ  Home(トップページ)へ



23.『千曲川のうた』 −郷愁の昭和20年・30年代ー

 「あたたかいお茶をのみながら、このアンパンと向かい合うときが、私にとって郷愁と、ちょっぴりぜいたくな気持ちになれるひとときである」。(柳沢孝彦『千曲川のうた』)
 時代の風景を知る好著が刊行された。著者は昭和16年6月に長野県に生まれ、幼少年期を上田市近辺の町や村で過ごした。「千曲川にそそぐ小さな支流の山あいの集落」などを転々としていた。

 「戦後のもののない時代」、子どもにとっては「食べることがいちばんの関心事であった」。そのころ、「甘いものの多くは野山のもの」で、誕生日にお母さんが作ってくれるおはぎやいなりずしは「ごちそう」であった。
 「甘いもので強く印象にのこっているのは、小学校3年(昭和25年)ごろに出会ったアンパンである。(中略)お腹をすかしていることの多かった私たちにとっては、文字どおり垂涎のお菓子であった」。

 このほか、蚊帳、つるべ井戸、もらい湯、……、 そして、映画「ターザン」、雑誌「おもしろブック」と『少年王者』のことなどがつづられる。著者は日記をつけていて、それをもとに書いているので、語り口にはリアリティーがある。そのため、一つ一つの光景が眼前に思い浮かび、あの時代を過ごした者にとっては「泣けとごとくに」(啄木)というほどの郷愁となるであろう。

 それが第1部で、第2部では昭和36年以降の東京での生活のことに話が移る。まだ経済の高度成長が始まる前のことで、夏の水不足や物価のことがつづられる。定食が65〜90円、新聞が1部10円、葉書が5円、後楽園球場の内野席が……等々、昭和の一時期の風俗史でもある。淡々とした語りの中に、そこはかとなくユーモアも漂う。

 本の体裁や目次などの概要はこちらの「寄贈本文庫」で。著者には続編の『父さんの詫び状』もある。



22.インタビューレポート「登山家山野井泰史・妙子夫妻の生き方」

 中2の巧樹くんが、登山家山野井さんにインタビューさせていただけないかと言い出した。学校の宿題で、だれかにインタビューをして、レポートを15枚以上書かなければならないが、たまたま正月にテレビで山野井泰史・妙子さんのドキュメンタリー番組を見て、その生き方に感動したから是非ともお二人のことを書きたいと言う。

 山野井さんには当サイトにも「ある出版祝賀会」でたびたび登場してもらっているが(上記「21」「17」参照)、世界最強のクライマーと言われるように、とてつもなくスケールの大きな人である。テレビや出版社の取材にはおいそれとは応じてくれないということであったから、果たして中学生に会ってくれるか懸念されたが、ランニング登山家の香川さんに仲介をお願いしたのがよかったのだろう、いとも簡単に承諾してくださった。

 インタビューは本年2月7日、NHK出版の会議室において実現した。巧樹くんはレポートを提出した後、お礼代わりに、それをワープロで打ち直して山野井夫妻と香川さんに送ったところ、とてもよく書けていると、おほめの言葉をいただいた。
 そこで、このまま埋もれさせるのはもったいないと、本サイトに収載することと相成った。こちらへ。

Apr.8'08

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21.ある出版祝賀会(その2)

(1)秋の一夕、東京・青梅市の香川澄雄さん宅で「山野井夫妻のグリーンランドの大岩壁登攀と『金副隊長の山岳救助隊日誌』の出版を祝う会」が開かれた。
 香川さんや山野井夫妻については、こちら(その1)を参照。金(こん)さんは警視庁青梅警察署山岳救助隊の副隊長で、奥多摩好きの皇太子殿下にも親しく声をかけられる存在である。

 標題の前半「山野井夫妻のグリーンランドの大岩壁登攀」は、実はこの日(11月18日)の19時から20時50分までNHKハイビジョンで「山野井泰史・妙子『グリーンランド白夜の大岩壁に挑む』未踏峰登頂の全記録」と題して放映される。会の日時はこれに合わせたものである。

 会は17時から22時となっているが、案内には「遅れての出席、早めの退席は随意」ともある。気楽に三々五々と集まり始める。8畳二間をぶち抜いた会場にはコの字形にテーブルが置かれ、正面の床の間に大型のハイビジョンテレビが据えられている。テーブルには早くも湯気の立っている鍋もあり、ビールや酒が酌み交わされている。

 席は前のほうから埋まり、放映が始まるころにはほぼいっぱいになった。総勢30名。山岳耐久レースやウルトラマラソンの覇者・猛者たちに交じって、地元の名士やスポーツドクター、体育大教授、山岳雑誌の編集長、それに、NHKのディレクターの姿も見える。
 中には、ハイビジョンテレビがないために駆けつけたと挨拶する人もいた。「そういう人が多いのではないかな」との声も聞かれた。

 金さんは奥多摩町の議員選挙の関係で遅れてくるという。シルクロード走破の中山嘉太郎さんは急用で、また、登山家女優の市毛良枝さんはお母さんの介護のため欠席ということであった。

 番組は山野井夫妻のロケハンから始まる。なぜ、グリーンランドか。それは「自分の中で何か足りないものがあるような気がするから」なのだそうだ。それはまた、ヒマラヤやアルプスはだいたい様子が分かってしまって、惹かれるものがないからということでもある。グリーンランドは世界のクライマーにとっても未踏の地である。ヘリコプターで見回って、遂に1,300メートルはあろうかという大岩壁を見つける。

 ハイビジョンの画面はすばらしい。景色もさることながら、ズームを駆使するところは圧巻である。岩壁と格闘する姿をロングで引くと、人物は米粒のようになって大岩壁に消える。内容についてはこのくらいにしておこう。後は見てのお楽しみである。

 NHK総合の「NHK特集」で、年明けの20年1月7日(月)午後10時から約1時間放映される。再放送は同1月10日(木)午前0時10分からとなっている。
 なお、同1月31日にはこの取材記が『夫婦で挑んだ白夜の大岩壁』と題して、NHK出版から刊行される。


(2)番組が終了したころに金さんが現れた。直ちにサイン会となる。
 サインの横には「目を閉じて若き日の山を想う」と添えられている。ロマンの香りが漂う。ページを繰ると、谷川岳やヨーロッパアルプスの思い出に交じって、奥多摩の新緑や紅葉の頃の光景が紹介される。

 本の帯には「〈奥多摩〉は楽しい、しかし危険もいっぱい」とある。これが本書の主題である。遭難の記録であり、救助の記録である。それは「なぜ?]に始まる。「なぜ遭難するのだろうか」というのである。山のベテランにも不可解なことが起こるらしい。
 ちなみに、平成18年の山岳遭難事故件数は青梅署管内だけで35件、67名、うち死亡5名、重傷8名である。

 遭難事故の多くは装備の不備にあるようだ。軽装で雨の寒さに凍える者、ズックで足を痛めて歩けなくなる者、懐中電灯も持たずに日暮れて下山のできない者、等々、そういう人々に対して、金さんは「おれは怒っているんだ」と繰り返し言う。それでも、連絡を受ければ、放っておけないのだ。

 『わたしの新日本百名山』で著名な岩崎元郎さんは本書の序文で「安心登山の十ヶ条」として、A装備、服装を整えておく、B体力を養成しておく、E計画は万全にしておく、等々を挙げ、「それじゃあ、山で会いましょう」と呼びかけている。

 これに対して、金さんは「十ヶ条」に賛同しながらも、傷ましい23例の「日誌」書き記したあと、「あとがき」を「じゃあみなさん、山で会わないようにしましょう」と結んでいる。思わずにんまりさせられるが、笑ってはいられないのだ。

 なお、『金副隊長の山岳救助隊日誌』は、発行:角川学芸出版、発売:角川グループパブリッシング、定価:1524円(税別)となっている。

Dec.2,9 '07

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20.作文コンクール「税の作文」

 このところ、都道府県レベルの作文コンクールで、受講生の入賞が相次いでいる。
 桜子さんが「人権作文」で秋田県の教育長賞を受けたのに続いて、花梨さんが「税の作文」で東京都と多摩地方の2つの税の関係団体から表彰を受けた。


 「税の作文」といえば、2年前に当道場主宰がTBS系列のラジオ番組で、その「書き方」について話をしたことがある。国税庁の提供番組の中で全国約30局を通じて放送され、このサイトでもネットワークを紹介した。
 「書き方」のポイントの第一は、「体験の中から、税金に関係のある事柄で、なるべくユニークなものを探そう」ということである。作品の良し悪しは8割がたが話の中味で決まるものだからである。

 道場内においても、通信講座においても、もちろん同じ話をする。花梨さんが書き始めたのは、応募すると決めてから1週間ぐらいたった後だっただろうか。
 受賞作品を紹介しよう。花梨さんは現在、中学3年生である。

DMAT(ディーマット)
 私の母は、独立行政法人「国立病院機構災害医療センター」で働いている。災害医療センターは普通の病院とは少し違い、災害が起きた時のために、防災食や毛布を備えたり、化学兵器や核兵器が使われた時の人命救助のため様々な研究を行ったりしている。私達が安心して暮らすためには、なくてはならない病院だ。
 先日、母と二人で地震による被害についてのニュースを見ていた時のことだ。母が
「こういう時にディーマットが助けに行くのかなあ」
と言った。私は「ディーマット」が何なのか分からなかったので、早速母に聞くと、私にも分かるように教えてくれた。私はその話を聞いて、今、日本でディーマット(DMAT)と呼ばれる災害医療チームが各地に広まりつつあることを知った。
 日本には地震や津波、台風など、自然災害が多い。最近では日本各地で震度5以上の地震が起こり、今後何十年かの間にさらに大きな地震が起きるという話も耳にする。にもかかわらず、日本は世界の中でも災害医療の面で遅れているという。そこで、つい最近になって、DMATという災害医療チームが発足することになったというのだ。
 DMATとは「Disaster Medical Assistannce Team の略で、具体的には、地震や火災、交通災害、テロなどの現場に、特別な訓練を受けた医師や看護師などが、安全のためヘルメットや作業服で48時間以内に到着し、救命処置を行う。また、現場の医療支援を行う。ヘリコプターなどが患者を運ぶために使われることもある。現在、全国の病院から希望する医師や看護師を募って、災害医療センターで研修を行っている。この活動を厚生労働省や都庁がバックアップしている。つまり、DMAT研修の運営は税金によってまかなわれているのだ。
 阪神大震災の時は救命活動がかなり遅れたということであったから、私はDMATの誕生をすばらしいことだと思った。と同時に、今まで税金というと、私には「政府に取られてしまうもの」というイメージが強かったが、このような活動に税金が使われるなら、税金はありがたいものなのだと思った。この間の新潟中越地震では災害医療センターのDMATが実際に救援にかけつけ、多くの人命を救助したそうだ。
 考えてみると、私達の身近な教育やゴミの回収、道路の整備にも税金が使われている。私達が安心して暮らせるのに税金が役立っていたのだ。今までの私は、税金の「とられる」というイメージにとらわれていたのかもしれない。これからは、税のことについてよく知って、世の中の役に立つ税を納めていける一人になりたいと思う。

                (以上、約1200字)

(Dec.4 '05)

付記:12月22日には地元、国分寺市で市長賞優秀賞も受ける。いわば3冠である。

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19.アイドル誕生

 当道場には、ヨン様もいれば、ギター侍もいる。
 ヨン様などは本物よりいいくらいだ。ギター侍は弟のようによく似ている。ヨン様こと、カズくんはこの春から立教大学に通っている。一目会いたい人は校門の前で待っているがよい。
 ギター侍は小学生なので、学校を教えるわけにはいかない。午後4時ごろ、道場の入り口で待っていれば、会える日もあろう。

 道場主も「シェ−ン」や「アラビアのローレンス」に似ていると言われたものだが、それはともかく、当道場から本物のスターが誕生した。今ふうに言えば、アイドルの誕生である。アユちゃんという。彼女には時どき「道場日記抄」に登場してもらっている。高校2年生。芸名は、まだない。

 4月6日、アユちゃんは東京芸術劇場でデビューした。劇場は都立の大きなビルで、東京・池袋の西口にある。ビルは8階くらいもあろうか。大ホールでは内外の一流オーケストラの演奏会が月に一度は開かれる。
 そのビルの小ホールでアユちゃんはデビューした。

 デビュー作は「青春時代+」というコメディーで、話は「国民の学力の低下による国力低下を危惧した日本政府は、19歳以上50歳以下の国民全員に基礎学力統一試験を実施。その試験に不合格となった者は、学歴、年齢を問わず、再び高等学校の生徒になることになった。少子化に伴い寂しくなっていた全国の公立高校の教室は、大人も加わり賑やかなものに……」というあたりから始まる。

 舞台には一教室分、約30の机と椅子が並べられており、左手に黒板がある。
 始業式の日、てんでんばらばらな服装をした、20代の若者、30代の主婦、40代のやつれた男などが教室に入ってくる。その中に制服を着た現役の高校生の姿も見える。その中の一人がアユちゃんで、後ろのほうに席を占めた。

 去年の夏ごろであったか、アユちゃんからオーディションに受かったという話は聞いていた。なんでも、2000人に1人という難関であったようだ。2月ごろ、役が付いたと聞いたときは、いわゆるその他大勢の「そうだ、そうだ」というくらいの役の1人かと思っていたのだが、なんと、芝居はアユちゃんのセリフで始まった。

 「っていうか……」で始まり、女生徒が3人、気の弱い男子生徒を怒鳴り飛ばす。愛くるしい顔のアユちゃんが「バカはあっちへ行けよ!」などと威勢がいい。芝居は2時間半、春夏秋冬を経て、全員がめでたく卒業するところで話は終わる。
 ベテランに交じって、アユちゃんもセリフをはさむ。臆するところがない。

 いずれドラマやCMにアイドルとして登場するであろう。
 アユちゃんは都立の上位高校に通っている。勉強もできるが、絵も上手だ。ピアノにも天分が窺われる。学校へは自転車を飛ばし、部活のマネジャーも務める。それでいながら、道場を休むことはない。
 5日間の公演を終えて、生活は元に戻った。しばらくは学業に専念しよう!

                             (Apr.17 '05)

 なお、このたびの「青春時代+」は、作・演出:砂川仁成、劇団:プロパガンダ・ステージによって上演された。芝居は一場ながら、教室で目まぐるしく展開し、休憩なしの2時間半を飽きさせることがない。
 ホームページ: http://www.propagandastage.com/

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 18.25年ぶりに見つかった『俳句かるた』

 「俳句かるたが出てきたんだ」
 先月(平成16年11月)末、成田空港近くの知人から電話があった。古本を処分するために整理をしていたら、段ボール箱に入っているのが見つかったという。

 そういえば、当時は倉庫難のため、友人知人を頼ってあちこちの蔵や物置に預かってもらっていた。毎年注文に応じて運び出して、14〜5年前にすっかりなくなったと思っていたのだが、預けたほうも預かったほうも忘れたままのものがあったのだ。
 段ボール箱で4つか5つあるというので、自動車を駆って引き取りに行くことにした。

 快晴の空の下、中央高速から都心を抜けて東関道へと車を走らせた。千葉県に入る頃から風が出始め、次第に強くなった。前夜から今朝にかけて太平洋岸を吹きぬけた猛烈な突風の名残のようだ。
 東関道の左右には田んぼと森の風景が打ち続く。いわゆる里山というのだろうか、この風景には外国からのお客さんも心を和ませることだろう。

 25年前、初めてこの道を通ったときは、成田空港は出来ていたものの、反対闘争のため、開港できないでいる頃で、機動隊が方ぼうに散らばっていた。大坂から動員されてやってきたという隊員もいた。
 高速を下りてからの道を忘れてしまったので、地図を描いて送ってもらった。その中に「成田山」という文字が見えた。下りてすぐだと分かったので、初めて団十郎の寺・新勝寺に参詣した。

 知人の家は利根川を渡った茨城の稲敷郡という所にある。関東平野の真っただ中で、田園が果てしなく広がる。秋の実りの時期には、まさに名の通りの光景が見られるであろう。知人・I氏の家はその中の集落の一つにある。往時の農家のたたずまいのままである。氏はここから東京・銀座の会社に通っている。

 懐旧談もそこそこに段ボール箱を車に積み込む。中を覗いてみると、けっこう新しい。箱もツヤを失っていない。氏が電話をくれたときは「今、日に干している」ということであったから、相当傷んでいるものと思っていたが、なかなかどうして、新品同様である。

 収穫したばかりのコシヒカリと枝つきの柚子をお土産にもらって帰途につく。
 道々、「天の配剤」、そんなことが思われた。この時季に、こんなものが現れたのだ。タイミングがよすぎる。
 「何はともあれ、復刊の予約募集に申込みをしてくれている方々に知らせよう。2年余りも待ってくれている人がいることでもある」 思案は一決。

 しかし、200個足らずでは数が少なすぎる。どうすればよいか、……。頒布するなら年内でなければならない……。猶予はならぬ。とにかく、800余人の方々に知らせよう!……
                                          (Dec.10 '04)

 「25年ぶりに見つかった『俳句かるた』」の写真は、こちらでどうぞ。

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17ある出版祝賀会

 読者諸賢は、次の方々の名を、どのくらいご存知だろうか。

    山野井泰史  中山嘉太郎  香川澄雄

 山野井さんは世界屈指のソロクライマー。世界の山々の岩壁を単独で登攀することで知られる。一昨年秋にはヒマラヤのギャチュン・カンに登頂後、雪崩に襲われながら奇蹟の生還を果たした。

 中山さんはジャーニーランナー。3年前にシルクロード約1万キロメートルを単独走破したことで知られる。伴走車もなしに一人で走る。

 ご両人は、「植村直己冒険賞」、その他、朝日スポーツ賞などを受賞している。

 香川さんは、ランニング登山ランナー。例えば、日本第二の高峰・北岳を、一般人なら7〜8時間かかるところを2時間半で登る。「日本三百名山」のランニング登山を成し遂げたことで知られる。

 さて、山野井さんと中山さんの著書がこのほど相次いで出版された。(2004年4月)

    山野井泰史著 『垂直の記憶 岩と雪の7章』(山と渓谷社)1575円
   
中山嘉太郎著 『シルクロード9400km走り旅』(山と渓谷社)1680円

 これを記念して、5月16日、東京・青梅市の香川さん宅で出版祝賀会が開かれた。夕刻5時、8畳二間をぶち抜いた会場には早や人があふれている。
 参加者名簿には、ウルトラマラソンランナーの面々やヒマラヤの8000メートル峰極めた女性の名が見える。多士済々のメンバーの中には、山好きの女優・市毛良枝さんのお顔も見える。


 会は編集者の苦労話で始まった。その間に、上記の2著が配られた。それぞれ今日の日付でサインが入っている。
 思えば、待望久しい著書である。快挙が報じられてから『垂直の記憶』は1年半、『走り旅』は2年余りの月日が流れている。前書きや後書きを読むと、編集者の話と相俟って、念入りに書かれていることが分かる。

 出席者の中には既にこれらの著書を読んでいる人がいて、感想もいくつか聞かれた。
 その中の一つ。「とてつもないことに挑戦し実行する決断に驚かされるが、困難を困難とも思わず目的に向かって進む姿に心を打たれる」

 もう一つ。「冒険家は命知らずなのではなく、最も命を大切にする人なのだろう。『垂直の記憶』の終章「生還」では生きることへの執念を感じた。私はクライマーでもマラソンランナーでもないが、多くの人に、ぜひこの感動を味わってほしいと思う」

 概要を紹介したいと思うが、とりあえず、これはオンライン書店に頼るとしよう。
 例えば「紀伊国屋書店」のサイトで、『垂直の記憶』、または、『走り旅』と入力すれば、表紙の写真と目次、経歴などが表示される。こちらへ。


 料理がまわり、酒も六腑に回り始めたころ、もう一書が回り始めた。 この本は上記2著と同じくこの4月に発売されたもので、実は参会者には、2著と併せて3冊のうちから2冊を選べることになっていた。だが、当然、みんなは3冊ともほしい。

    『山がくれた百のよろこび』(山と渓谷社編・刊)1,890円

 137人の山好きが、それぞれ3ページほどの喜びを寄せている。その中には、本日の参会者の山野井泰史、市毛良枝、香川澄雄、江本嘉伸、松原尚之、田中幹也、大久保由美子のみなさん、それに、何と!徳仁親王、橋本龍太郎、不破哲三、三浦雄一郎、田部井淳子、白旗史朗、山村レイコのみなさん等々、枚挙に暇がないほどの名が見える。

 これを機に、7人のサインを求めて席の移動が始まる。あちこちに話の輪ができる。山野井さんのティーシャツの腕をめくって筋肉の盛り上がりを確かめている人もいれば、中山さんの足の裏に見入っている人もいる。市毛さんのところには編集者が彼女の著書を積み上げる。たちまち、これはさばけてしまう。

    市毛良枝『山なんて嫌いだった』(山と渓谷社) 1,470円

 市毛さんのサインは、山野井さんや中山さんの武骨なのとは違って、滑らかな円を描いている。「これで市毛良枝と読むの?」と言う人もいたが、まろやかさに人柄が偲ばれる。それにしても、この清楚な姿のどこに3000メートルや5000メートルを登りきる力があるのだろう。きっと体の芯が強いのだろう。

 これらの2書も、上記のオンライン書店で『百のよろこび』『山なんて』と入力すれば、概要が表示される。


 書き落としてはならないのは、山野井夫人・妙子さんの存在である。
 彼女は会が始まるころに現れ、市毛さんの隣に座を占めた。主役は後から登場、かと思いきや、どうやら今日の料理の世話をしていたらしい。既に新聞やテレビで世界有数のクライマーとしておなじみだが、挙措動作がつつましやかだ。

 そんな印象もあって、山野井さんの数々の快挙について「内助の功ですね」と言ったところ、「そんなの好きじゃないのよね」と、即座に合いの手が入ったのは、市毛さんからであった。自分も好きでいっしょに登っているのだから、決して陰の人ではない、パートナーというあたりがふさわしいかというところに話は落ち着いた。

 互いに相手を頼もしいと思い、手を取り合って進む。「理想の夫婦だね」と、賛嘆の声が期せずして上がる。「この本の最終章は、さしずめ、極限状況における夫婦愛のドキュメントだな」との感想も聞かれた。
 実際、「植村直己冒険賞」は、ギャチュン・カンからの帰還に対して、夫婦で受賞しているのだ。

 デザートにスイカが回るころ、会は流れ解散となったが、午後10時、話の輪のいくつかは、まだなかなか解けそうにない。

                       ( Jun.12 '04)

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16.「百人一句・古今名句百選かるた」

 「『俳句かるた』マガジン・一句の味わい」では、12月から『百人一句』の句と解説も紹介することになった。
 このかるたは山本健吉氏の選著になるもので、正式には『百人一句・古今名句百選かるた』という。山口誓子監修『動物俳句かるた』、水原秋桜子監修『俳句いろはかるた』と並んで「俳句かるた三部作」をなす。
 これがどんなかるたであるかを、発行当初の新聞記事によって紹介しよう。

          ……………………………………………………
 かるたの「百人一首」ならぬ「百人一句」が、なかなかの売れ行きだという。
 これは、山本健吉氏が古今の名句から百句を選び、一句ごとに解説を加えると共に、家族ぐるみ、あるいは友人同士で楽しめるように、かるたにしたもの。芭蕉の「此道や行人なしに秋の暮」を筆頭に、西鶴、去来、蕪村から、子規、虚子や芥川龍之介、山頭火、秋桜子、草田男、永井龍男などの作品が収められている。(東京・国分寺、教育計画発行、3,800円)

 さて、ここでの話題は、その人気のほどだが、たとえば昨年末、東京・日本橋の三越本店書籍部で山本氏のサイン会を開いたところ、二百部余りがあっという間に売り切れてしまったというのだ。
 そろばんの話をすると、これだけで約80万円の売り上げとなったわけで、これは、プロ野球の人気男・長島巨人監督が自分の著書のサイン会で60万円の売り上げをマークしたという記録を上回るそうだ。

          (『東京新聞』昭和52(1977)年1月8日夕刊)
          ……………………………………………………

 選著者の横顔も紹介しておこう。
 山本 健吉(やまもと けんきち):(1907〜1988)
 長崎県に生まれる。慶応義塾大学国文科卒。折口信夫に師事し、民俗学の方法を学ぶ。文芸評論家として活躍。明治大学教授、日本文芸家協会理事長等を務める。昭和58(1983)年、文化勲章を受章。
 著書:「芭蕉」「現代俳句」「最新俳句歳時記」「いのちとかたち」他、多数。

                                     (Nov.30 '03)

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15.俳句かるた』の誕生秘話

 およそ25年前に、こんな記事が朝日新聞に載った。


 教育関係の出版社に勤めていた埼玉県入間市の坂口允史さん(35)が、一組の俳句カルタを作った。正月に子供の遊び相手をしていた時の体験にヒントを得て、友人の大学助教授らの応援で、このほど印刷が終わり、発売されることになった。

 この俳句カルタは五十音順で46組。子どもたちになるべく分かりやすく、なじみ深いものをと、種々の動物が登場する。小林一茶、与謝蕪村を中心に、正岡子規、村上鬼城、高野素十らの句まで古今にわたっている。読み札の裏には、子どもに聞かれても答えられるよう簡潔な解釈・説明文をつけている。絵も動物を強調した多少コミカルなものだ。

 坂口さんが自分でカルタを作ろうと思ったきっかけは、長女(4歳)、長男(3歳)とカルタ遊びをしようと思って持ってこさせたカルタに失望したことからだ。「スポーツ根性もののカルタでしたが、およそ表現がくだらない。他に市販のカルタを二、三見てみたが、韻を踏んでいたり、いなかったりして不統一が目立つ。しかも、このくだらない文句を子どもたちが多少とも覚えてしまっている」と坂口さん。

 どうせ覚えるなら、きれいな表現のものを、と坂口さんは一冊の絵本を作るつもりで手製のカルタを作ってみることにした。子どもに分かりやすく言葉にリズム性のあるもの、という点から小林一茶の俳句を中心に選び、足りない読み札用には自分で俳句をひねり出し46組を手書きで書いた。絵は友人のイラストレーターに頼んだ。それからは三日にあげず子どもたちとカルタ合戦。一月たたないうちに二人の幼児は覚えてしまい、がぜん文字に興味をもち始めた。

 この様子を見た坂口さんの友人たちは、自分の家庭用に欲しいと言ってきたが手書きで一組しかない。幼児教育問題を坂口さんと一緒に研究している萩原昌好埼玉大助教授(国文学)や小中高校教諭ら四人と話しているうちに、いっそのこと印刷しようという話になったのが今春。

 それなら読み札用の俳句も、坂口さんの作った句は除いて厳選しようと、四人が2か月がかりで選句を終えた。子どもに聞かれても答えられるよう説明文もつけることにし、解釈が間違っていないか、選句が妥当かどうか、萩原さんを通して、松本旭同大教授に目を通してもらい、絵も書き直してもらって、印刷がこのほど終わった。幼児教育にかねてから感心をもっていた坂口さんは、出版社をやめて退職金や貯金を費用にあてるほどの熱中ぶりだ。

 坂口さんを応援した萩原さんは「一茶の句を多くしたように、生き物や自然への共感がこもった句が多く、今の子どもたちに欠けているものです。また今様のゲームやプラモデルが子どもたちを取り巻いて、昔の遊戯が忘れられている。カルタ取りは文字遊びとして、正月だけでなく日常的な遊びとして復活できたら」という。

       〔1976年(昭和51年)10月14日付「朝日新聞」東京本社版より〕


 これが、問い合わせや注文で5本の電話が1週間にわたって1日中鳴りっ放しというほどの反響を呼び、やがて山口誓子、水原秋桜子という高峰を監修に迎えて、「動物俳句かるた」「俳句いろはかるた」へと発展した。
                              (Dec.3 '02)

「俳句かるた」の復刊  「俳句かるたマガジン・一句の味わい」

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14.「グルメバラ肉

 遠い記憶をたどって、ようやく’えもいわれぬ味’に再会できたという話を一つ。’02年夏、東北自動車道を青森から南下した折のことである。

 北上の途中、磐越道が開通して福島・郡山から’いわき’に行けることが標識で分かった。とっさに思い浮かんだのがバラ肉料理である。そこには「蘭燈園(らんたんえん)」があるはずだ。風の噂で、その店はそこに越したと聞く。

 「蘭燈園」は東京・国分寺にあった。店主の自慢は「ねぎラーメン」にあったようなのだが、バラ肉がすこぶるうまい。「東坡肉(トンポーロー)」という。あぶら身も肉も同じようにとろけていて、透きとおった琥珀(こはく)色のタレというか、アンがかかっている。そのアンにはどんなスパイスが入っているのか、とにかく’えもいわれぬ’としか言いようがない。

 当時、その肉が牛肉なのか豚肉なのか分からなかった。味通の同僚に尋ねると、「これだけうまけりゃ、どっちでもいいよ」ということであった。

 あれから十数年。
 最愛の味に会えなくなった後、「バラ肉」や「角煮」と聞くと、さっそく買い求めてみたが、どれも「蘭燈園」の味には遠く及ばぬ。わずかに、横浜・崎陽軒の真空パックのものが足もとに及ぶ。

 もしかして、その味に再会できるかもしれぬ。同行の面々に「行くか」とただすと、「行ってみよう」と言う。電話で調べると、果たして「蘭燈園」はあった。(0246)62−0243。店主の声は昔に変わらぬ。郡山でハンドルを左に切って80余キロ、高速道路を「いわき勿来(なこそ)」インターで降りて、目差すは「東田町2−15−2」。カーナビがないので文字どおり紆余曲折、閉店間際にたどり着いた。

 メニューを見ると、ラーメンに主力を置いているようだ。「歳をとると、いろいろ作るのがしんどくてね。品数を減らしたよ」。それでも「バラ肉ラーメン」はちゃんと載っている。バラ肉はもっぱらラーメン用に味付け済みのようだったが、店主は当時のようにあつらえてくれた。ほうれん草やモヤシを敷いた上にバラ肉が載り琥珀色のアンがかかっている。懐旧談の合い間に自慢の品が次々と出てくる。食べ終わってみれば、フルコースのようなもてなしだった。

 同行の面々が「また来たい」と言った。これをもって味の証明に代えたい。

                                    (Aug.18 '02)


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音符

1.平和の灯(ともしび)

(English)

 ジェーンさんがアメリカへ帰ることになった。彼女はカリフォルニア大学から一橋大学の大学院に留学してきていて、週に一回、中学生に英会話を教えていた。今から十数年前、当道場の前身の塾が英会話教室をもっていた頃のことである。いよいよ明日帰るという日に、餞(はなむけ)の言葉に代えて、彼女に次のようなことを伝えた。
 「ジェーンさん、日本とアメリカはもう二度と戦争をすることはないと思う。日本国民はだれも、もう戦争などしたくないと思っている。これは断言できる。しかし、戦争の可能性がないわけではない。いつ、どこで誤解が生じるか分からない。そこで、もし危険な気配が生じたら、周囲に向かって『日本は戦争する気はない』と大声で叫んでほしい。こちらでも対話の必要を大声で叫ぶことにする」。彼女はにっこりとうなずいた。私たちは握手をして別れた。

 このホームページが独自ドメインを取得して送信を始めたのは今年の1月である。改めてwww. という蜘蛛の巣の上に乗った時、記念に何かひとことメッセージを記しておきたいと思った。2000年という記念すべき年でもある。世界に伝えるメッセージとなると、「平和」に勝るものはない。すぐに思い浮かんだのが上の一事であった。
 ジェーンさんとはいつしか音信が途絶えているが、「便りのないのがよい便り」とも言われる。一朝事あれば彼女は思い出してくれるだろう。そうでなくても、ここに書き記しておくことによって、もしもどなたかの共感が得られるならば、声の広がりが期待できる。ささやかな点灯であるが、これをもって平和の灯(ともしび)としたい。志を察していただければ幸いである。

                     (Feb.11.’00 ; 作文道場・主宰 坂口允史)
                                

                 To the world

 Jane was leaving for the United States. She was a graduate student from California University studying at Hitotsubashi University and taught English at my juku (a private school). It was more than a decade ago, when my school had an English Conversation class.
 I made my farewells to her:"Jane, I don't think Japan and your country will make war each other again. All Japanese don't want war any more. I'm sure of that. However, you can't deny the possibility, because nobody knows if we misunderstand each other again. So, if you notice a hostile atmosphere around you, please tell everybody loudly that Japan will never fight against you. We, Japanese, will strongly call for the need for talk." Jane understood and nodded with her eyes wide open. We shook hands firmly and parted.

 This website is open to all over the world. When I opened this site at the beginning of this year, I wanted to send a message to the world to commemorate my happy site and Millenium. The best message would be about "peace", I thought, and came up with the memory I wrote above.
 I haven't heard fromJane since then. But, no news is good news, I hear. She will remember it when there appears a sign of danger. If that's not the case, someone, who reads this message, will tell it to the world, I hope. I expect someone, namely, you. The torch will be passed.                             

Sincerely yours, M.Sakaguchi (Feb.11 '00)

--- Translated by Yuhming.

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アオイ