葉っぱ







順に上に書き加えていきます。
12.ICAN

11.またも日本政府の「愚」
10.大リーグ新と世界新
(イチロー4257安打))
9.安保法案
(集団的自衛権と憲法)
8.賭博を勧める学校
(「株の売買ゲーム」)
7.無駄な解散
(議員定数の削減無視)
6.認知症の夫の事故の賠償
(逆さまの判決)
5.世にも不思議な物語
(日本政府の怪))
4.東日本大震災復興案
(卓抜の提言)
3.「近ごろ気になること」
(随時掲載)
2.学力
(継続的テーマ)
1.読書感想文
(このサイト開設のきっかけ)

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12ICAN (核兵器廃絶国際キャンペーン)
(Intenational Campaign to Abolish Nuclear Weapons)

 スウェーデンのノーベル賞委員会は、2017の「ノーベル平和賞」は、核兵器の廃絶を目差す国際NGOの「ICAN」に授与すると発表した(Oct.6)。
 授賞理由は、「核兵器がもたらす破滅的な人道面での結末を人々に気づかせ、条約に基づく核兵器禁止の実現へ画期的な努力を重ねてきた」ことである。

 この組織は2007年にウィーンで発足、世界101か国に468の支持団体をもつ。ICANは、授賞発表を受けて、「広島と長崎の被爆者や世界中の核実験による被害者が、証言や主張を通じて画期的な条約成立を助けてくれたことをたたえるものです」との声明を出した(朝日新聞)。「条約」とは、今年7月に国連で採択された「核兵器禁止条約」を指す。

 この度の平和賞は広島、長崎のHIBAKUSHA(被爆者)とICANのスタッフの二人三脚の努力が、「核実験禁止条約」の延長上で結実したものと言われる。
 画期的な、まさに時代を画する記念すべき一事である。
 よって、ここに1ページを設ける次第であるが、同時に無念の一事も記しておかなければならない。

 それは、この慶事に日本政府は無反応なことである。
 (※ 下記「11日本政府の『愚』」参照)。
 筋の通らない言い訳(屁理屈)はやめよう。世界にはもうこれだけの仲間ができているのだ。
「過ちては、改むるに憚(はば)かることなかれ。過ちて改めざる、これを過ちという」(論語)。 


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11またも日本政府の「愚」

 10月27日(’16)、国連総会第1委員会で、核兵器を法的に禁止する「核兵器禁止条約」が、来年3月から交渉を始めるとの決議とともに、123か国の賛成多数で採択された(反対38、棄権16)。
 歴史的な歩みとなるものであるが、日本は米英仏ロ等の核保有国とともにこれに反対した。

 何たることか。国内のみならず、多くの国が唖然としているということだ。またしても、日本政府は愚行を犯したのだ。「またしても」というのは、3年前にも同じ「愚」を犯しているからである(下記「5.世にも不思議な物語(日本政府の怪)」参照)。
 決議に賛成した国々は拍子抜けしたことであろう。唯一の被爆国として、日本は先頭に立って、この条約を推進するものと考えられていたからだ。

 この条約に反対の理由として、佐野国連軍縮大使は「加盟国の総意がない限り、この条約は効力をもたない」と言い、岸田外相は「核保有国と非核保有国との間の対立をいっそう助長し、亀裂を深めるものだからだ」と言っているが、いずれも言い逃れにすぎない。総意はすぐに得られるものではない。総意を築く努力こそが必要なのだ。亀裂を深める恐れがあるのなら、双方に働きかける努力が求められる。日本は「橋渡し役」を自認してもいるではないか。

 実際には、「アメリカの核の傘の下」にある国々にアメリカから圧力がかかったからということであるが、核兵器に関する限り、どんな事情・理由があるにせよ、日本は「核兵器反対」の態度を貫かねばならない。それは、被爆を体験した国として、人類に対する使命でもあるのだ。

 なぜ、アメリカに遠慮するのか。日本が核兵器に反対しても、これを奇異に、あるいは不遜に思う人や国はないであろう。アメリカとても同様である。現に、現職大統領が「核なき世界」を唱道し、広島を訪れさえしているのである。

 このたびの禁止条約はオーストリアやメキシコが主導するものであるが、日本政府はその熱意を無にしてはならない。「核兵器廃絶国際キャンペーン」の事務局長は「核保有国からの圧力を受けながらも、多くの国々が賛成してくれた」と語っている。
 このような動向を目にすると、改めて日本政府の主体性の無さ、「腰抜け」ぶりが際立つ。

 採決に際して、「橋渡し役」を自認するなら、「棄権」という選択もあったのだが、次善の策も取れなかった日本政府は愚かであるというほかはない。
 来年3月には、決議にもとづいて、条約に関する交渉が開始されるという。せめて、日本政府はこの交渉に積極的に関与してほしいものである。


付記:「愚かな政府」の事例をもう2つ(’16年10月末現在)。
 「TPP」の批准の急ぎと「パリ協定(気候変動枠組条約)」の批准の遅れである。

追記:「愚かな政府」
 3月27日(’17)、国連で「核兵器禁止条約」の交渉会議が始まったが、日本は不参加を表明した。参加国は115、不参加国は40であるが、不参加国はアメリカの核の傘の下にあるNATOの加盟国などで、日本もこれに同調している。
 唯一の被爆国である日本は禁止の先頭に立たなければならず、いつまでもアメリカのご機嫌伺いをしていてはならない。115か国もの味方がいるのである。
 不参加の理由は、「この条約では、核保有国と非保有国との間の溝を深める」ということであるが、そうであるなら、その溝を埋める役割をこそ、日本は担うべきなのである。
 第2回の交渉は6月15日から7月7日の間に行われるという。今からでも遅くはない。面子を捨ててこれに参加するべきである。
 (Apr.2 '17)

 「核兵器禁止条約」は’17年7月7日、122か国・地域の賛成により採択された。
 日本政府は依然反対のままである。

 17年度の広島、長崎における「平和記念式典」の模様については、こちらの「道場日記抄」へ。


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10大リーグ新と世界新
   (イチロー4257安打))

 書いておかずにはいられない問題がある。

 6月16日(’16)、アメリカ大リーグ・フロリダ・マーリンズのイチロー選手が対パドレス戦で、日米通算4257安打を記録した。これは、アメリカ大リーグの最多安打、ピート・ローズのもつ4256本を抜くものである。
 これはアウェーの球場で記録されたものであったが、サンディエゴ・パドレスの観客はスタンディングオベーションでこれを祝福した。

 アメリカの有力紙もこの記録を伝えたが、野球ファンの中には、日米のレベルの違いを理由に、この記録を認めない勢力もある。
 当のピート・ローズは、記録が近づいたころ、「イチローは高校時代の記録を加えている」と言ったそうだ。これは、日本の野球のレベルを高校野球並と見ているのだが、見識に乏しい。

 その一つの証左は、ワールド・ベースボール・クラシックである。第1回、第2回は日本が優勝し、第3回はドミニカ共和国が優勝しているが、アメリカにはまだ優勝はない。
 アメリカは決して駒落としをしているのではなく、例えば第1回ではアレックス・ロドリゲスやデレク・ジーターなどのスーパースターを揃えていた。下記に当時の写真がある。
 http://dohjoh.com/newpage78.html
 アメリカは接戦をくり返してはいるが、まだ優勝はないのだ。
 日本人選手が(それに、韓国人選手も)大リーグで活躍しているのを見ても分かるとおり、世界のレベルは接近しているのである。 

 現役選手のコメントもある。何度もイチローと対戦したことのあるデトロイト・タイガースのサイヤング賞投手・バーランダ―は、「彼にはどこに投げればよいか、いつも悩まされている。もし彼が始めからメジャーでプレイしていれば、じゅうぶん今の記録ぐらいは打っていただろう。何せ、途中からでも3000本近く打っているのだから」。

 折しも、1週間余りたった24日、ギネス・ワールドレコードが、イチローの4257本を「プロ野球における最多安打数」として認定した。
 「ローズの記録は大リーグ新」、「イチローの記録は世界新」でよいのではないか。


付記;2016年8月7日(日本時間8月8日)、イチロー選手は大リーグ3000安打を記録した(デンバー・クアーズフィールドで)。


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安保法案
(集団的自衛権と憲法)

 中1のAくんは夏休みに(’15年)、次の作文を書いた。「安保法案」(安全保障関連法案)が7月16日に衆議院で採決されたというニュースを見て、「集団的自衛権」とはいったい何なのだろうと思ったことがきっかけであったという。
 中学1年生でもこれだけのことを考えている、という事例を紹介しよう。

 集団的自衛権とは、同盟国が攻撃を受けたときに、同盟国といっしょに攻撃国と戦う権利である。安倍内閣は、密接な関係にある他国への攻撃により、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根本から覆される明白な危険がある場合に限り、集団的自衛権を行使できるとしている。
 だが、この案件は抽象的であり、歯止めがきかなくなる恐れがある。また、防衛という本来の目的に反している。
 現憲法第9条第A項では、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあるため、自衛隊の存在はそもそも憲法違反であるが、防衛は国の必須条件であるから、誰もがその存在を認めるとしても、同条第@項の「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ということからすれば、同盟国が危険にさらされていても、これに加担することは憲法に反する。そこで、政府は「国民の生命と平和な暮らしを守るために限り、同盟国の支援をする」としているが、この考えには無理がある。この考えによれば、国民の生命が脅かされていない場合、同盟国の支援に回れないことになるが、実際にはそうはいかず、同盟国の軍隊が危険にさらされている場合、同盟国といっしょに戦うことになるだろう。この点について、国会では引き続き参議院の与野党間で揉めているが、根本的には憲法違反である。このことを認めないで、政府が同盟関係を維持しようとしていることに問題がある。
 この問題を解決するには、憲法を改正すればよいのだ。ところが、改正には衆参両議院の総議員の3分の2以上の賛成と、国民の過半数の賛成が必要である。現状では総議員の3分の2以上の賛成を得ることは困難であるため、政府は憲法解釈を変えるという手段に打って出たのである。
 このように見ると、集団的自衛権にせよ、安保法案にせよ、法的には無理があるので、憲法改正の観点から問題を検討すべきである。

分かりやすい。理路整然としている。
少し補足をすれば、
憲法の改正に当たって考慮しなければならないのは、
現憲法では触れられていない「防衛」ということである。
「防衛は必要である」ということには、誰も異論はないであろう。
論議はそこに立脚すべきである。

与野党議員は字句・文言にこだわって揉めているよりも
大局的見地に立って、国の存立を考えなければならない。
現政権は違憲の法案をゴリ押しするよりは、
国会議員と国民の説得にエネルギーを費やすべきである。
(Aug.27 '15)

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賭博を勧める学校
  (「株の売買ゲーム」)

 「株の売買ゲーム」と題して、ある生徒が次の作文を書いた。

 公民の授業で、株式ゲームをしました。株の売買を通して、私は利益を増やしていきました。たくさんもうかると、ゲームとはいうものの、お金が増えていくことにわくわくして、ゲームのとりこになってしまいました。しかし、この学習の中で、私はずっと疑問をもっていました。

 株は、購入した株が値上がりした場合、売却した時に高い金額で売れたら、元の金額との差額が利益、利ざやになります。そのため、株価が安い時に買って、高くなったら売却するのが基本です。私たちは利ざやを目的として、株の売買を行いました。この売買は、投資と区別して「投機」と呼ばれ、今の株式市場の主流になっています。そのため、もともとの株の意味が変わってきています。
 本来、株というのは会社の事業を支援するためのものでした。会社が株を発行して資金が集まれば、会社は事業を拡大することができます。ところが、その株が市場に出ると、売買の対象になり、会社の運営に関係なく投機家に売買されるようになります。その株は利ざや目当ての人々の売買の対象になってしまいます。株価が、例えば2倍に上がっても、その会社の利益にはなりません。投機家が利益を得るだけです。ここで株本来の意義がなくなります。

 父の知人で、証券会社に勤めていた人の話によると、利ざやを目当てにする人の中には、一日中パソコンとにらめっこをして、株価の上がり下がりを見ていて、少しでも上がれば売るということを仕事にしている人もいるということです。そのような人が得た利益は「不労所得」と呼ばれます。「労働をしないで得たお金」という意味です。こうなると、株はますます本来の意義から遠ざかり、ずるい人を生む道具となってしまいます。
 また、株を投機と考える人の中には、2000万円もの財産を株に注ぎこんだところ、株価が大暴落して、破産してしまった人も少なくないということです。
 このような話を聞くと、株の売買には一つもよいところはありません。

 株に投じるお金は会社の業績を上げるために使ってほしいし、働かないでお金をもうけようとする人が生まれないような仕組みにしてほしいと思います。
 「株の売買ゲーム」をしてみて学んだのは、このようなことでした。

 これを読んで、諸賢はどんな意見・感想をおもちになっただろうか。

 これは、「公民の授業で」とあるように、実際にある中学校で行われたことである。「ある学校」と書いたが、いくつもの学校で行われているであろう。それは、「日本証券業協会」が学校へ持ち込んでいるからである。
 要項には「株式学習ゲームに関する生徒の感想文」「(同)教諭の小論文」募集とある。コンクール形式で、もちろん、賞品も付いている。

 株価が日々のニュースになるご時世であるから、「日本経済の仕組みの一端を知るため」という名目かもしれないが、株の売買ないし投機は一種の賭博である。それが授業で教えられているのだ。
 持ち込んだほうも持ち込んだほうだが、それを受け入れる学校も学校である。見識が疑われる。

 「株の売買・投機は資本主義の汚点」と見なす証券マンもいる。
 学校関係者は時流に、また、甘言に惑わされてはならない。生徒の見識をこそ見習うべきである。

 なお、作文・小論文についての問い合わせ先は次のようになっている。
 日本証券業協会−金融・証券教育支援センター/電話;03−3667−8029/Eメール;8_edu@wan.jsda.or.jp


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無駄な解散
(議員定数の削減無視)

 こういう記事を載せると、紙面を汚す思いがするが、止むを得まい。政治家の約束の不履行を見過ごしにしてはならないからだ。

 平成26年11月21日、衆議院が解散された。
 解散がマスコミでささやかれ出したのは、11月の10日ごろからではなかったかと思う。。当初、それを信じる人はいなかったであろう。それが、どうやら本当らしいとなったとき、誰もが「なぜ、今ごろ」と思ったことだろう。解散話が現実味を帯びてくると、与党内でも「大義名分がない」と懸念され、例えば自民党の岐阜県連が反対決議をしたほどであった。

 多くの疑問と懸念と反対の中で解散は行われた。自民党の幹事長も、公明党の党首も「解散は首相の専権事項」と逃げていたから、この解散は安倍首相の一人芝居の様相が強い。解散の名目は、本人によれば「アベノミクス解散」ということであるが、アベノミクスはまだ世に問えるほどの成果を上げていないから、本音は別のところにあろう。
 「今のうち解散」というのが、最も本音に近いと思われるが、それはともかく、……

 このたびの解散は「議員定数の削減」を行ってからするべきであった。安倍政権はこれを最も大きな、最優先の課題として出発したはずであった。
 2年前の平成24年11月14日、衆議院の解散を迫った安倍自民党総裁に対し、野田首相は「消費税等の増税を国民に求めるなら、議員は『自らも身を切る覚悟をしなければならない』と応じ、「議員定数の削減を次の国会で行うなら、明後日に解散してもいい」と断言した。これに対し、安倍総裁は「約束ですね」と念押しして、そのとおり16日の解散となった。

 安倍政権は消費税を8%に上げたものの、議員定数の削減には全く触れずに解散した。約束違反も甚だしい。約束を念押しした張本人の約束違反である。「あざむき解散」というほかない。

 現在、議員定数の削減案は衆議院議長のもとに設置した第三者機関で審議・作成されている。11月30日のNHKの党首討論で、安倍首相は「第三者機関の結論に従う」と明言したが、それなら、結論を待って解散してもよかったのだ。いや、そうするべきであった。
 そうしなかったのは、「今のうち」との焦りからであったか。だが、憲法改正など、一人の思惑でやってはならないのだ。それについて、また、今ごろの解散について、首相に諫言できない議員たちも情けない。


追記:何のための解散だったのか。

 12月24日(’14)、第3次安倍内閣が発足した。閣僚は、1人の辞退者を除いて、全員が留任である。何の変化もない。
 変化がないと言えば、与党の議席も一つ増えただけで、変わりがない。「今のうち」に自民党単独で3分の2の議席を確保しようと目論見ながら、これは大きな誤算であったことだろう。こんなことなら解散しなければよかったと思う議員も少なくあるまい。

 ただ1つ、大きな変化があったのは、投票率が史上最低の52%を記録したことである。これは無党派層が棄権したためである。これは、それほどに魅力のない選挙であったことを物語っている。与党はアベノミクスを掲げていたが、それは継続中のものであったから、審判を受ける性質のものではなかったことでもある。

 このように見てくると、何の収穫もない、600億円と言われる費用を無駄に使っただけの選挙であった。
 記者会見でこれを質さなかった記者団も情けない。


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認知症の夫の事故の賠償
(逆さまの判決)

 4月24日(’14年)、名古屋高裁は認知症で電車にはねられた91歳の男性の遺族に、JR東海に対する損害賠償の支払いを命じた。
 事故は7年前に愛知県大府市で起きた。認知症の男性は、家族が屋外で仕事をしたり、妻がまどろんだりしている間に外出し、線路内に立ち入って電車にはねられた。JR東海がこの事故による損害賠償を求めたのに対し、高裁は家族が監督責任を怠ったとして、359万円の支払いを命じた。

 この判決について、「認知症になっても自宅で暮らせる体制をどう築くか。重い課題を突きつける判決である」(読売新聞「社説」4月27日)。「厳しい判決には違いない。負いきれない責任を負わされるなら閉じ込めるしかない。そんな窮地に家族や施設は追い込まれかねない」(朝日新聞「天声人語」4月29日)。これらを読むと、筆者たちは判決を一つの事件としてしか見ていないようである。「こりゃ、大変だ」と言うばかりで、判決の当否を問うてはいないのである。

 この事故と判決については、はたして家族に「監督責任」を問えるのかどうか、したがって、「賠償責任」が生じるのかどうかという疑問がもたれる。

 例えば、幼児が車道に飛び出して車にひかれたとする。その場合、親は「監督責任」を問われるだろうか。むしろ、罰せられるのは車の運転手である。その車がバスであった場合、バス会社は「損害賠償」を求めるであろうか。賠償しなければならないのは、むしろ加害者である運転手やバス会社のほうである。

 認知症の人は、社会的には幼児に等しい。したがって、バスにひかれた場合、損害賠償を受ける立場にある。バスが電車に変わっても、それは同じである。賠償責任はひいた側、つまり、鉄道会社にあるのである。監督責任は、幼児の親にないのと同様、認知症の人の家族にはないと言わなければならない。

 因みに、監督責任とは言っても、放し飼いにした犬が人にかみついたというのとはわけが違う。この場合は飼い主が責任を負わなければならないが、認知症の人は害を加えたわけではないのだから、このケースで見ても、家族に監督責任があるとは言えない。責任は、加害の意思のない人をひいた電車にあることは言うまでもない。

 このたびの高裁判決について、「認知症の人の介護の在り方を考えると、時代に逆行した判決だった」という論評もある(西日本新聞「傾聴記」5月1日)が、根本的には、責任の所在を見誤ったことにある。このたびの判決は、監督責任と賠償責任について「逆さまの判決」であったと言わなければならない。

 認知症の人を抱える家族が介護に加え、多額の負担を強いられることのないよう、監督責任の問題を世に広く訴えたい。

【 付記 】
 この事件に関し、平成28年3月1日、「家族に賠償責任はない」という最高裁の判決が出た。
 最高裁は、「介護する家族に賠償責任があるかどうかは、生活状況などを総合的に考慮して決めるべきである」とし、今回は妻と長男は監督義務者に当たらず、賠償責任はない」と結論付けた。

 JR東海は敗訴を認めたということであるが、この問題をここで終わらせていいものかどうか。認知症の人をひき殺した責任はどうするのか、疑問は残る。

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世にも不思議な物語
(日本政府の怪)

 平成25年(2013年)8月9日、「被爆68周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の平和宣言の中で、田上富久長崎市長は次のように述べた。

(前略)
 日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
 今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
 しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
                                         (後略)

 今年4月、NPT準備委員会の共同声明に日本が署名しなかったというニュースが流れたとき、唖然とし、首をかしげた人が多かったことだろう。
 最初にして唯一の被爆国として、日本は、二度と原爆を使用してはならないと世界に訴える立場にある。あの無惨なケロイド(火傷)を負いたくはないし負わせたくもないというのが国民感情なのである。だから、いかなる国の核の使用にも日本国民は当然のように反対する。

 記者会見で、署名しなかった理由を質されると、菅官房長官は「日本の安全保障政策と合わないから」と答えただけだった。
 それを詮索してみると、北朝鮮や中国の核の脅威が前提にあるようだ。それに対抗するには日本も核(爆弾)を保有しなければならない。しかし、「非核3原則」の国会決議によって自身が核を保有することができない。そこで頼みとするのが同盟国アメリカの「核の傘」である。そのアメリカは、中国やロシアなどの核保有国と同様、このたびの共同声明には署名していない。そこで、日本はアメリカをおもんばかってこれに同調して署名しないのだと推測されている。

 「推測されている」とは言っても、そこにしか理由は見当たらない。共同声明は「いかなる状況下でも核兵器が再び使用されないことが、人類生存の利益になる」と訴えるが、日本政府は「いかなる状況下でも核兵器が再び使用されないこと」の文言を削除せよと迫り、これが受け入れられなかったために署名しなかったというのだ。これでは、日本政府は核の使用を認めていることになる。何とも不思議なことだが、長崎市長の平和宣言はこの点を突いているのである。

 日本政府がアメリカのご機嫌を窺っている一方で、アメリカでは新たな動きが起きている。オバマ大統領が、4年前の2009年4月にチェコのプラハで次のような演説を行っている。

 アメリカは、核兵器国として、また、核を使った唯一の核兵器国として行動する道義的責任がある。アメリカだけではうまくいかないが、アメリカは指導的役割を果たすことができる。
 
 今日、私は核兵器のない世界の平和と安全保障を追及するというアメリカの約束を、明確に、かつ、確信をもって表明する。この目標はすぐに達成できるものではなく、おそらく私が生きている間にはできないだろう。忍耐と粘り強さが必要だ。しかし、我々は今、世界は変わることができないという声を無視しなければならない。
                                         (後略)

 これがノーベル平和賞の受賞につながったのだが、この演説で、彼は「我々は核不拡散条約(NPT)を強化する」とも述べている。
 そして、ロシアのプーチン大統領との間で戦略核弾頭の配備数の削減について話し合い、今年5月のベルリンでの演説で、双方が約1000発まで減らすことで合意したことを明らかにし、改めて「核兵器のない世界」を追及していく方針を宣言した。
 
 このように、当のアメリカが核不拡散に向けて動いているのに、日本政府が逡巡しているのが不思議なのである。いや、アメリカがどういう態度を取ろうと、日本は唯一の被爆国として「核兵器のない世界」へのイニシアティブを取らなければならない立場にある。共同声明の提案国の南アフリカの言うように、日本がリーダーシップを取らない限り、条約は説得力をもたないのである。

 世界の大勢がこうであるのに、動こうとしない日本政府の態度は、摩訶不思議と言わなければならない。長崎市長の、日本政府への提言は、堪忍袋の緒が切れた、多くの日本国民の代弁でもあろう。

ーーー 以上、前編 −−−
ーーー 以下、後篇 ーーー

 長崎に先立つ8月6日、広島平和記念式典において、松井広島市長は平和宣言の中で、被爆による悲惨な事例を挙げた後、「原爆は非人道兵器の極みであり、『絶対悪』です」と断じ、「日本政府が核兵器廃絶を目差す国々との連携を強化することを求めます。そして、来年春に広島で開催される『軍縮・不拡散イニシアティブ』外相会合においては、NPT体制の堅持・強化を先導する役割を果たしていただきたい」と述べた。

 それに対して(とは必ずしも言えないが)、その日の挨拶の中で、安倍首相は「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には確実に核兵器のない世界を実現していく責務があります」と述べ、3日後の長崎でも同じことを述べた。
 しかし、4月に共同声明に署名しなかったことをもってすれば、これは言葉だけのものであり、絵空事であることは見え透いている。政治家は平気で嘘をいうものだと、看過してはならない。鎧の下に核武装が見え隠れしているのである。

 不思議なのは、もう一つ、共同声明に署名しなかったことに対して、野党議員からこれを質す声、糾弾する声の上がらないことである。ある党首の「核を持たないから、北朝鮮になめられるんだ」という声は論外として、国会からは非難の声さえさっぱり聞こえて来ないのである。
 インターネットで調べてみると、2つほどの「つぶやき」が目についた。1つは、野党第1党の議員のもので、質問状なのだが、その宛先が何と外務省で、それもそこで止まっているのである。もう一つは極左政党の議員のもので、オバマ大統領にプラハ演説に賛辞を呈したところ、返事が来たと言って喜んでいる始末である。

 国会議員というのはこんなものかと思えば、それで済まされもしようが、こうも声が上がらないと、国会議員は全て核武装論者なのかということになりかねない。一度政権公約に掲げて、選挙民に問う必要もあろう。

 防衛は必要である。だからといって、核武装は許されない。他の方法を熟考する必要がある。例えば、スイスに先例があり、ガンディーの教えと実践もあることだ。新時代には時代にふさわしい方策も必要であろう。しかし、核は、非人道的であるが故に、使用してはならない。否、廃棄されなければならないのである。

 世の片隅から、貧者の一灯として、これを世に捧ぐ。

 付記;
 それでも、日本政府はスイスやニュージーランドの3度目の要請を受けて、ようやく10月22日になって125か国の仲間入りをして署名をした。
 アメリカや中国がまだ署名しない状況で署名したのは、世論に押されたためである。まずもってよしとしなければならないが、何とも頼りない政府である。(Oct.23 '13)


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東日本大震災復興案
(卓抜の提言)


まず、下記復興案の最初の10行をお読みいただきたい。
だれもが気になりながら言えなかったであろう見識が示されている。
筆者は香川澄雄さんといって、
「日本三百名山」をランニング登山したことで知られる。

香川さんは、大震災が起きた直後に、
東京の青梅市から食料その他の救援物資を車に積んで駆けつけた。
以来、1年半の間に東北地方を訪れること、数度に及ぶ。

しかし、いつ訪れても、復興は一向に進まない。
業を煮やして書き上げたのが本書である。
怒りの提言でもある。
現在、政界・官界の関係各方面に向けて発信されている。







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「近ごろ気になること」

も く じ

@ 「会議とボトル茶」
A
B
……………………………………………………………………………………


@ 「会議とボトル茶」

 高校入試や就職試験では、よく「最近の出来事で最も印象に残ったこと」とか、「最近のニュースで注目したこと」とかいう課題が出される。これらは、時事に対する関心度を見るためのものであるが、「近ごろ気になること」というのも同類である。

 秋のある日、中3のUくんは{近ごろ気になること」という課題を前に思案して、もう10分になる。
 「Uくんが気になるのは、内申のことでしょう、近ごろはますます、ね」と、Hさん。Hさんは高1で、教科書の論説文の要約をしている。この時間の生徒はこの2人である。
 「あんまりズバリと言わないでよ。心臓に悪いよ」(U)
 「ああ、ごめんなさい。この課題には、去年私も悩まされたわ」(H)

 「道路に空き缶が落ちているのは気になるけど、『近ごろ』のことではないのだろうなあ」(U)
 「私は放置自転車のことを考えたのだけれど、あれもずっと前からの問題のようね」(H)
 「しかし、今でもまだ問題なんだから、とらえ方によっては古い問題とは言えないし、解決の仕方によっては新鮮味がでるかもしれない」と道場主(D).

 「今、ニュースでは何が問題になっているのだろう」(U)
 「それについては、『アメリカ大統領のこと』というのがあった。小学生の作文なのだが、オバマさんはノーベル平和賞を受けるほど平和について真剣に考え、核兵器をなくそうという考えをもっているから、どうしてもオバマさんに当選してほしいと、気になってしかたがなかったというのだ」(D)
 「そんなことを考える小学生がいるのですか。まいったなあ」(U)

 「ニュースといえば、私には気になることが1つあるの」(H)
 「なんだい?](U) 身を乗り出す。
 「テレビで会議の場面が映るでしょ。そうすると、たいてい机の上に緑色のペットボトルが並んでいるの」
 「ああ、見る、見る。よく見る。お茶のペットボトルだよね」(U)

 「私はいつも、あのお茶はいったいどうなるのだろうかと気になるの」(U)
 「ああ、そうだ。ぼくもそう思っていた。気がつかなかった」(U)
 「あのお茶、一口飲んだ人は、持って帰るのかしら。それとも、そこに置いたまま帰るのかしら」(H)
 「置いて帰るとしたら、無駄になるよね。もったいない」(U)
 「飲まない人は、置いていくのかしら、持って帰るのかしら」(H)
 「置いていくとしたら、次の会議でそれを使うのかな。次の人は残り物を飲まされているみたいだ」(U)
 「持って帰るとしたら、ただでもらうのよね」(H)
 「そのペットボトルが役所のお金で買ったものなら、税金泥棒だ」(U)
 「飲みたい人は自分でもってくればいいのにね(H)

 「そもそも会議にお茶は必要かということだね」(D)
 「お茶がないと我慢が出来ないのかしら」(H)
 「我慢のできない子供の集まりみたいだね」(U)
 「昔からの習慣が残っているのだろう。昔は、いや、今でもお客さんが来ればお茶を出すよね」(D)
 「会議に出る人はお客さんなのですか」(H)
 「場所を提供する側から見れば、お客さんなのだろう」(D)
 「でも、お客さんにはふつう、お茶を入れて湯呑みで出しますよね」
 「うちでも、ペットボトルで『どうぞ』というのは見たことがない」(U)
 「役所や会社では、簡単に言えば、お茶汲みの人がいなくなったからなのだ」(D)

 「では、形式的に昔の習慣が残っているだけなのですね」(H)
 「そんなところだろう」(D)
 「では、それをやめようという人はいないのですか」(H)
 「いないようだ。不思議なことに」(D)
 「こんな話をしていると、ペットボトルの前に座っている人たちが、でくの坊に見えてきた」(U)
 「無駄だということに気がつかないのは、みっともないですね」(H)
 「ああ、だんだん腹が立ってきた」(D)
 「私も}(H)
 「大声で叫びたいよ。会議のボトル茶は、もったいない!」(D)
 「みっともない!」(H)

 Uくんの作文の材料が出そろったようだ。

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学力

(1)削除された学習事項の復活
(2)「学力低下」という場合の「学力」
(3)「読み・書き・計算」の中味
(4)大学から見た学力
(5)受験に追われる小学生(あるお母さんへの手紙)
(6)マスコミと学力問題−1
(7)マスコミと学力問題−2

(8)東大の変容:「地方の人材歓迎」
(9)次期学習指導要領:「『言葉の力』を柱に」

(1)削除された学習事項の復活

 先月中旬、来年度からの中学校の教科書の新聞発表があった。目玉は「発展」、つまり、学習事項の復活である。理科では「月の満ち欠け」、数学では「解の公式」などが発展学習として復活した。
 新指導要領でせっかく3割を削減したのに、どうなることかと思っていた向きには、ひとまず、ほっとするところであろう。

 無難な、あるいは、順当な復活と言えるが、教科書会社によると、これらは現場の教師にアンケートをして採り入れたということである。
 教科書会社のこの方法には見識が感じられる。少なくとも、文科相ないし文科省にくらべれば。
 文科省は学習指導要領などの基本方針をよく変更するが、当事者はいったい、どこのどんな声を聞いて方針を変更しているのか、根拠が薄弱なのである。

 最近では、中山文科相が「総合学習」の時間の削減を打ち出した。当の学習はまだ始まったばかりなのにである。おそらく、それはOECDの「国際学力調査」の結果を見てのことであろう。日本の子どもの学力は上位ではなかった。その一事のために、総合学習の時間に目を付けたのであろうが、短絡的に過ぎる。

 遠山前文科相が削減項目の復活を許容したのも、新指導要領が実施されて間もなくのことであった。この時も、許容の理由が明らかにされてはいなかった。「学力の低下」を懸念する声に押されてのことであったと思われるが、その声はどこから聞こえてきたのか。

 学校現場からではあるまい。現場では、3割削減によって「詰め込み」批判の重圧から解放され、ほっと一息ついているころであったからである。で、あれば、その声はマスコミから聞こえてきたのであろうか。

 その一つに、朝日新聞の記事がある。3割削減が打ち出されたとたん、関西方面のお母さんたちから、学力の低下を懸念する声が上がり、「学校で教えないなら、自分たちで教える」とまで言っているということであった。

 当のお母さんたちによれば、「今までに比べて力が落ちるから」ということであったようだが、それは建前で、本音は「こんなことでは灘中・灘高に受からない」ということなのだった。

                      (May 12 '05) つづく


(2)「学力低下」という場合の「学力」

 こんな記事を書き始めたせいか、このところは新聞で「学力低下」という見出しが目につく。
 いわく「『学力低下』高まる圧力 授業のため…夏休みを短縮 小中学校、自治体に動き」(5/14)。また、いわく「PTA調査『学力低下心配』 5日制、否定派が上回る」(5/18)

 これらは朝日新聞のものであるが、他紙でもこうなのだろうか。
 「学力低下」をうたえば読者の注意を引くという魂胆とも思われるが、それはともかく、こういう場合の「学力」というのはいったいどういうものを指して言っているのだろうか。また、それがどの程度低下するというのか。

 上記の見出しの「小中学校、自治体」の場合、授業日数を増やそうとするのは、学習指導要領(ないし教科書)の内容を消化し切れないためであろう。これは、目安として理解ができる。しかし、時間数を増やせば力がつくというものではない。そのためには、指導法に加え、本人の興味や関心、集中力を要するからである。逆に言えば、指導と集中力がマッチしさえすれば、短時間でも済むのだ。

 「小中学校、自治体」の処置は学習事項の消化という義務的な動きであって、必ずしも学力の向上を目指すものではない。
 では、学力とはどういうものか。言い古されたことだが、最も基本合意が得られるのは「読み・書き、計算」の力であろう。

 ちなみに、江戸時代には「読み・書き、そろばん」であり、多くの子弟は寺子屋でこの力をつけた。明治になって日本が欧米列強に対抗できたのは、一つに、寺子屋で培われたこの「国力」があったからだと言われる。
 文科相も国民の学力を大局的考えるならば、OECDによる国際比較などに惑わされずに、一度「読み・書き、計算」の力を見直してみる必要もあろう。その観点から「国力」の充実と個々の能力の育成を図るのだ。

                      (May 19 '05) つづく


(3)「読み・書き・計算」の中味

 ここで、「読み・書き、計算」の中味を見ておくとしよう。
 「読み・書き」について、まず考えられるのは「漢字」、次いで「理解」と「表現」である。「計算」については「四則計算」ということをもって事足りよう。
 より具体的に、中味を表にしてみよう。

 「漢字」…「常用漢字」の読み書き。
 「理解」…「書いてあることを読み取る」「すらすら読む」
 「表現」…「読み取ったことを書き表す」「見聞したことや自分の考えを書き表す」
 「四則計算」…「たし算」「ひき算」「かけ算」「わり算」(念のため)

 ひと口に「読み・書き、計算」といっても、中味には知識あり技能ありで、多岐にわたる。では、どの程度の知識・技能が身につけばよいのか。
 基本的には「社会生活をするのに不自由のない知識・技能」ということであろう。それが学校制度の始まりの根拠でもある。義務教育はこの観点から制度と内容を見直すべきでもあろう。

 例えば「計算」において「平方根」は必要であろうか。日常生活では根号計算の必要はほとんどない。学習の目的が「数の世界を知る」という程度のことであれば、これは「義務」(必修)の範囲からはずし、数学好きの「数遊び」に任せるべきなのだ。
 そうすれば、「落ちこぼれ」を生み出さずに済むであろうし、数学好きはどんどん先へ進めるであろう。それが個性を伸ばすということにもなろう。

 ついでながら、例えば「逆上がり」の出来ない子を落ちこぼれとは言わない。反面、それの出来る子が必ずしも良い評価を得ているとは言えない。
 根号計算の出来る子も逆上がりの出来る子も、同じように良い評価を与えられてこそ、それぞれが生き生きとしてくるのである。

 それはともかく、「学力」の問題に戻れば、学力の程度は「社会生活に必要な知識・技能」という観点からは「常用漢字」と「算数の四則計算」によって計ることができる。「読み・書き」についてはなお検討を要するが、「書いてあることが分かる」ことと「身のまわりのできごとが書ける」ことをもって計測の目安としておこう。

 義務教育においては、この意味の学力を基礎学力として、その涵養を徹底して図るべきである。小数や分数の計算、割合の問題などについては中学3年間を費やしてもよいのだ。その間に、身のまわりのできごとを人に伝えられる程度の訓練に時間を割くべきであろう。
 小中学生はもとより、大学生もほとんどが書くことを苦手としているのが現状である。

 理科や社会、数学は「知の遊び」とするのがよかろう。知的好奇心に任せるのである。音楽や美術は「心の遊び」、体育はもちろん「体の遊び」と位置づければよい。
 そうすれば、自治体も小中学校も時間数を増やすことに汲々としなくても済むのである。

                      (May 26 '05) つづく


(4)大学から見た学力

 このような制度と中味が実施されるとなると、また関西方面のお母さんたちから声が上がるであろう。「こんなことでは大学入試に間に合わない」と。だが、心配は要らない。
 「遊び」というのは「気持ちのゆとり」をいうのであって、興味と適性によって学習させれば、知識の習得は確実で、考える力も伸びるであろう。また、現在、大学も変わりつつあるのである。

 ここで、大学の要求に耳を傾けてみよう。例えば、神戸大学・工学部のS教授は「学生に必要なのは、『読み書き、計算の力』だ」と言う。それがあって初めて授業が成り立ち、研究も進むと言うのである。要求されるのは、やはり「基礎学力」なのだ。

 もっとも、この場合の学力には「読み書き」では「英語」、「計算」では「微分・積分」などが入っていよう。大学の要求がまともならば、高校・中学ではここから逆算してカリキュラムを作成すればよい。ただし、授業は飽くまで生徒の興味と適性を考慮して行われなければならない。「遊び」であるから、決して強制してはならない。

 ところで、じゅうぶんな力はつかなかったが大学に受かったという場合、どうすればよいだろうか。これについては次のような記事がある。
 「国立大生 学力低下防げ」−「習熟度別授業や補習クラス設置」(朝日新聞 22/5)
 近頃の大学は親切である。03年度で補習を行っている大学は158校あり、そのうち国立大が60校ということである。
 
 大学が変わりつつあるといえば、この春、ある週刊誌のグラビアに、東大の合格発表の日の様子が特集で載っていた。その中に、タレントと見まがうクリクリッとした明るい表情の女の子が二人ほど登場していた。勉強オタクに代わる新鮮なイメージがある。
 選考基準が変わっているのだ。

 大学が変われば、高校も変わる。
 これを東大予備校ともいえる開成高校の例で見ると、大きな変化は、国語の入試問題では選択肢問題がなくなり、全てが記述式になっていることである。「読み・書き」という、本来の学力観に立ち返ったというべきであろうか。
 この傾向は、復活の兆しのある都立の名門・日比谷高校などの入試問題においても見られる。国語はもとより、数学においても、証明問題のほかに、思考過程を記述させるなどしているのである。
 
 このように、ゆとりの思考が求められている反面、中学入試に追い立てられている小学生がいる。週3日の授業に土日はテスト、山のような宿題をこなすのにせいいっぱいで、他のことには手がまわらないという。その数は全国で十数万人か。その様は、海辺の断崖に向かってひた走るネズミの群れにも似ている。

                   (Jun.2 '05) つづく もどる


(5)受験に追われる小学生(あるお母さんへの手紙)

 その例を、一人の生徒の母親への手紙によって見てみよう。

 Nくんは5年生になったばかりのころに、通信で作文を始めた。当初の、正月に箱根に行って見た富士山の話や近所の山に登って桜を見た話などは、印象を断片的に書き記す程度のギクシャクしたものであったが、「ユニバーサルスタジオ ジャパン」などの、好きなことについて書いたころから、いわゆる「5W1H」も整ってきた。しかも、単に楽しい思い出を記すだけでなく、テーマパークの魅力に踏み込むようにもなった。

 科学博物館を見学した折の作文には、実験で作ったロケットや電気自動車の作り方の手順も要領よく書かれている。
 題材が途切れるようなときには、日本史の各時代について順を追って書いてくる。おざなりに書き写すのではなく、自分なりに吸収したものを書いていることが読み取れる。歴史が好きなようだ。

 進学希望校は、初めは新興のK国際学園ということであったが、学校見学の作文には湘南藤沢の慶応の名も見えるようになった。この子なら歓迎されるであろうと期待していたところ、年明けの2月になって塾の宿題とテストで作文を書く時間がなくなったと言ってきた。

          …………………………………………………

 お母様へ
 お話によると、月月火水木金金の状態ですね。
 体はだいじょうぶですか。睡眠はじゅうぶんにとれていますか。「早寝、早起き、朝ごはん」これは、子どもの健全な成長を考えると、あの陰山先生の言に俟つまでもなく、今や常識ですね。

 寝不足では、仕事でもそうですが、勉強の能率も上がりません。何より、風邪を引きやすくなります。学力も健康であってこそ養われるものといってよいでしょう。まずは、じゅうぶんな睡眠に配慮してあげてください。

 健康といえば、体力のほうも気になります。毎日が勉強漬けでは体力づくりをする暇がないでしょう。特に今から18歳くらいまでは伸び盛りにありますから、ここで成長に停滞を来すと、その後の発達にも影響を及ぼします。大きく先を見通して、社会人になったときのことを考えると、ものをいうのは健康な体力であることは、だれもが認めるところでしょう。
 人生を見通せば、大切なのは学力よりも体力と言ってよいかもしれません。

 それにしても、仮に一流校を目指すにしても、そんなに長い時間勉強をしなければならないのですか。第一に気になるのは集中力の問題です。大人でも集中力が持続するのはせいぜい3時間といわれます。これはだれしも経験するところでしょう。

 それが子どもの場合はどうなのでしょう。集中力が切れると、例えば、塾で座っていても、講師の話が耳に入らないか、テキストに答えを書き写すだけということになってしまうでしょう。
 勉強については集中力の続く範囲での効率を考えたいものです。

 塾の勉強時間の長さとの関連では、一つ注意をしてほしいことがあります。それは塾のテキストの内容です。難問集ということで難しい問題ばかりが並んでいませんか。
 というのは、入試ではどの学校でも、例えば東大でも、7割得点すれば合格します。ということは、あとの3割はできなくてもよいということです。ところが、難問集にはそのできなくてもよいほうの問題が収められているのです。

 この3割部分のために、遊ぶ暇もないほどに時間を費やすとすれば、まさに’時間の浪費’でしょうし、その努力は’徒労’ということになるでしょう。
 徒労といえば、「3.14×2=6.28 3.14×3=9.42 …… 3.14×9=28.26」というのを、かけ算九九のように暗記させる塾があるそうですね。それを覚えておけば計算に時間をかけなくて済むということらしいのですが、これがこの先何の役に立つというのでしょうか。

 入試で求められているのは「基本知識と思考力」です。近年はそれがますます顕著になっております。くれぐれも塾の授業方式とテキストを吟味し、それがNくんにとって得策かどうかを検討なさってください。Nくんはすばらしい資質をもっております。これをじゅうぶんに伸ばす方策をお考えください。
 と言っても、中学受験をしてはいけないというのではありません。ただ、勉強時間が異常だからお話ししているのです。

 そこで、参考までに勉強法をお話ししておきましょう。まず、希望校の過去問をやってみることです。そうすれば、何をどうすればよいかの見当がつきます。その上で、参考書や問題集を購入するなり塾を探すなりすればよいのです。
 こうすれば、遠回りをすることがあっても、学力は確実に身につきます。何より主体的に取り組むところに勉強の意義があります。

 受験をさせる場合、考えておかなければならないのは、落ちたときのことです。ショックから立ち直れず、そのまま勉強嫌いになってしまう子も少なくありません。中学が目標であってはなりません。このあと高校入試、大学入試と、チャンスはあるのです。

 「よく遊び、よく学び」
 昔からの智恵に戻って、体力をつけ学力をつけ、健やかな成長を見守りたいものです。Nくんの資質には前途洋々たるものがあります。

                      (Jun.16 '05) つづく


(6)マスコミと学力問題−1

 Nくんについては、海辺の断崖に向かってひた走る一群のネズミの一人にならないことを祈る。
 中学受験のマイナス面についての問い合わせもある。ここでは二つの声を紹介するに留めよう。

 「下から上がってきた連中には bird を書けない奴もいるんだよ。ぼくは、こういう連中といっしょに大学生になるんだ」(東京六大学の系列高校3年生;Oくん)
 「東大や早慶に受かるのは、ほとんどが高校から入ってきた連中なんだ」(難関私立T高校の卒業生;I氏)

 さて、新聞記事に戻って雑感を書き記すとしよう。記事はすべて朝日新聞東京本社版のものである。

 先月初旬、東京都教育委員会は、小5、中2生を対象に1月に行った学力テストの結果を発表し、教科ごとの区市別の平均正答率も公表した。都教委のねらいは「各地域の実態を把握してもらい、具体的な学力向上策に生かしてほしい」ということにある。

 これについて新聞は、公表された平均正答率を区市別に合計して順位を調べ、「『向上を』追われる自治体」という見出しのもと、区市の教育委員会の反応を紹介している。その中にこんな記事が見える。「昨年、中学校の全教科とも正答率が都平均を下回り、区市別の結果が下位に沈んだ武蔵村山市は、今回も小中学校の全教科とも都平均には届かなかった」(6/10 東京・多摩版)

 これでは武蔵村山市の学力が低いことを印象づけるのみならず、都教委のねらいに輪をかけて「向上」を煽り立てているようなものである。
 新聞が取り上げるべきは、例えば、学力測定の尺度としての問題の妥当性や実施方法の妥当性の如何である。正答率を安易に評価の前提にしてはならない。

 ちなみに、多摩地方ではJR中央線に近い地域や学校ほど偏差値が高いという傾向がある。これはその地域には塾や予備校の数が多く、父母・生徒がその刺激を受けているためと考えられる。
 実際、今回も正答率の高かった武蔵野市、小金井市、国分寺市は中央線沿線にある。これに対して、武蔵村山市にはJRも私鉄も通じてはいない。

 地域単位の学力問題を考えるときには、区市町村の、いわゆる御上の取り組みのみならず、塾の関与も考慮しなければならない。ところが、文科省も教育委員会もマスコミもこのことに触れることは決してない。不確かなデータではまともな対策は講じられまい。

                      (Jul.1 '05) つづく


(7)マスコミと学力問題−2

 目についた一連の記事を整理しておこう。
 上記の、区市別平均正答率の公表についての記事が掲載された2日後に、「教育」欄に次のような記事が載っていた。

 「『もっと勉強しておけばよかった』中高生の7割が後悔」
 この見出しについて、これは「ベネッセ教育研究開発センターの調査でわかった。」とあり、続いて「約6割が学習意欲が低いという結果も出た。センターは『中学生になった途端、勉強に戸惑う子どもが多い。この[中1プロブレム]の対策を考える必要がある』と分析している」とある。(6/12 朝日新聞)

 その右のページに目を転じると、「学力低下という心配に応える問題があります」という見出しの全面広告がある。いいタイミングだな、と思って、広告主を見ると、「ベネッセ」とあるではないか。
 大新聞は教育産業の提灯持ちもいいところである。

 これは新手の広告なのであろうか。こうなると、進学塾や学参ものの出版社の名が出てくる教育関係の記事は、眉につばをつけて読まねばならなくなる。

 例えば、上記(2)の「『学力低下』高まる圧力 授業のため…夏休みを短縮」(5/14)という記事には、この動きに対して「すでに事態に対応している」ということで、中学受験の大手N塾の名が見える。さりげなく名を滑り込ませる、一種の宣伝と見られなくもない。
 N塾が第二の武富士にならなければよいが、とも思う。

 仮に広告とは無関係であるとしても、この種の記事は親心を煽り立て、断崖に向かってひた走るネズミのような小学生を増やすのに一役買ってはいるだろう。

                    (Jul.17 '05)

 「学力」の話(その1)は、ひとまず、ここまでとしよう。

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(8)東大の変容:「地方の人材歓迎」

 イチロー選手が5年連続打率3割、200安打を、松井選手が3年連続100打点、初の打率3割をそれぞれ達成したことをめぐって雑感を書こうとしていたのだが、次の記事が目についたので、「学力」談義のついでに、ここでこれを取り上げておこう。

 「東大も本気 受験生獲得」…「『地方の人材歓迎』各地で説明会」(9/28 朝日新聞)
 東大が1877年の創設以来初めて、受験生向けの案内冊子を作り、札幌、仙台、福岡など6都市で説明会を開くという。

 これは、「最近の学生は新しいことや難しいことへの挑戦を避ける傾向」にあり、「その一因として、最近の入学生が首都圏出身(03年で55%)と私立の中高一貫校出身(同47%)に偏っている」ことが挙げられるとの分析によるものである。

 かつて、「商社では、御三家出身の東大生は要らないと言っている。県立出の東大生がほしいのだそうだ」と言われたことがあった。御三家出身の社員は、海外へ買い付けに派遣しても、いちいち本社にお伺いを立ててくるので、せっかく権限を与えても役に立たないというのだ。

 それがようやく東大内部での実感となったようである。既に上記「(2)大学から見た学力」でも述べたことであるが、大学は変わってきているのだ。東大の選抜方法も今後はもっと変わってくることは当然予想される。

 「末は東大」を目指して月月火水木金金、運動をする暇もなく勉強に追われている小学生諸君は、親がこのことに気がつかなければ、行く手に赤門はなく、断崖から海へなだれ込むということにもなりかねない。今やっている勉強は役に立たなくなるだろうからだ。
 「学力」とは何か。「生きる力」と言ってよいかもしれない。

                     (Oct.9 '05)

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(9)次期学習指導要領:「『言葉の力』を柱に」

 前項(8)で、「大学は変わってきている」「東大の選抜方法も今後はもっと変わってくることは当然予想される」、また、「勉強に追われている小学生諸君」の「今やっている勉強は役に立たなくなるだろう」と述べた。

 この変化に呼応するような動きは、公立の中高一貫校の入試問題に見られる。例えば、東京の都立中では「適性検査」という名の、いわば総合問題や作文が課されている。これらには従来の中学入試の勉強では対処できない。柔軟な思考力が求められている。
 (※ これらの入試問題には東京都の教育委員会のホームページからアクセスして、プリントアウトすることができる)

 東京都では昨年の白鴎高校付属中に続いて、今年は3校(区立を含めれば4校)が開校した。いずれも人気が高いが、特に小石川中等教育学校は10倍を超える難関であった。高校の伝統も与って力があったことであろう。

 ちなみに、その小石川中等教育学校に当道場関係では3人の生徒が受験して2人合格した。「読書感想文」で『DIVE!!』を書いたKTくんと、「社会科作文」で『鑑真記念館』を書いた宗晃くんとである。宗晃くんは「理科作文」にも登場の予定であるが、彼らの文章が何らかの参考になれば幸いである。

 前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。

 文部科学省は次期学習指導要領に「すべての教育内容に必要な基本的な考えとして『言葉の力』を柱に据え」、これを「確かな学力をつけるための基盤として位置づける」ということである(朝日新聞:2/9'06)。

 ようやくと言えばよいか、今ごろになってと言うのがよいか、これを額面どおり受け取るならば、気がつくのがずいぶん遅かったという感慨を禁じえない。記者によれば、「『ゆとり』から『言葉の力』へ」の転換ということであるが、今まで「言葉」を何と考えていたのかと言わざるを得ないのである。

 はばかりながら、今回は道場の自慢ないし宣伝になりかねないが、当道場では当初から「言語能力は学力の基礎」というのを指導理念としている(こちらへ)。
 また、同指導要領では各教科での取り扱いについて、例えば国語では「音読や要約力の促進」ということであるが、これらも当道場では指導の基本に置いていることである(こちらへ)。

 それはともかく、日本には「言霊(ことだま)」の伝統があることでもある。「言葉の力」の意味が、教育関係者ばかりでなく、広く世に理解されることをひたすら願う。
 ついでながら、言霊に興味のある方はこちらから『言葉の力』(言霊とロゴス)へ、どうぞ。

                     (Feb.19'06)

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読書感想文
(「道場日記抄」Aug.26〜31 '04より) 

  夏休みに入ると、それも後半になると、当ホームページへのアクセス数がぐんと増える。ふだんは1日100〜150くらいなのだが、8月も下旬になると、300〜400にもなる。きっと、作文の宿題で困っている人が多いのだろう。実際、作文についての問い合わせが多く、読書感想文についての相談も多い。

 読書感想文は、あらすじ・あらましを書き、印象に残ったこと・興味をもった部分について書けばよいのだが、これが二つの点でなかなか難しい。一つは、あらすじ・あらましがまとまらないこと、もう一つは、感想が浮かんでこないことである。

 あらすじのまとめ方は、一般的には「こんな話なんだよ」と、人に話して聞かせる調子でよいのだが、難しいのは、コンクールで入賞でもねらうつもりなら、それが感想部分の位置を示すために必要十分なものでなければならないことである。

 もう一つの「感想」については、実はこれは、難しいというより、生徒には酷なのである。読後に「どうだった?」と聞いても、「おもしろかった」 か、「つまらなかった」というのが関の山であろう。それ以上に「もっと何かを感じろ」と強いられでもすれば、これは生徒には拷問にも等しい。
 読書家と言われる人でも、読後の感想はたいてい一言なのである。

 感想文といえば、「あらすじを書くな」という指導者もいるようだ。「すじを書いて字数を稼ごうとするな。感想を書け。自分の考えを書け」ということのようだが、これは極めて危険な指導法である。どんな話のどの部分について書いているのかが分からなければ、せっかくの考えも「木を見て森を見ず」ということになりかねないからである。

 これとは逆に、「あらすじをしっかり書きなさい」という指導があってもよいのではないか。一部を取り上げてあれこれ理屈をこねるよりも、一編の物語のすじをしっかりつかむほうが、どれだけ読書の収穫が得られることか。
 実際、すじさえしっかりつかめば、感想は自ずと出てくるもので、うまくすれば、それが主題に関わるものである場合もある。

 それほどでなくても、あらすじをしっかり書いた上で、最後にひとこと「○○が〜〜したところがおもしろかった」とでも書き添えれば、それで立派な感想文になろう。中味をしっかりつかんだという収穫があれば、たとえコンクールで入賞しなくても、それでよいのではないか。


「読書感想文」の例文集はこちら
(Apr.14 '05)

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