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光る文章講座

大学入試の小論文

―― 文 系 ――

推薦 ・ 一般

@ 「大学への期待」(日本女子大)
A 「外国語と私」(上智大)
B 「歴史的な場所の地誌」(お茶大)
C 「手仕事の道具の世界」(同上)
D 「読書の効用」(同上)
E 「芸術と娯楽の境界」(慶応大)
F 「セキュリティー社会」(同上)
G 「同盟国間の信義」(同上)
H 「情報経験と直接経験」(東京大)
I 「Web教育の是非」(東京学芸大)
J 「コミュニケーション」(同上)
K 「グローバリズムとナショナリズム」
           (津田塾大、上智大)

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@ 「大学への期待」 

(日本女子大学 文学部・英文学科、推薦入試)

小論文課題
 現在、大学の外国語教育において、「外国語を通して他の言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」が強調されています。そうした「実践的コミュニケーション能力」を身につけるために、あなたは大学にどのような外国語の授業を期待しますか。

                  (長さはけい線入り用紙両面以内なら自由)

はじめの答案 添削例・諸注意
 私は、留学制度を設けてもらいたいと思います。実際に英語圏の国に行き、英語を学ぶことで、実践的コミュニケーション能力も身につくと思うからです。私自身、実際に留学を経験し、変わることができました。
 私は、ニュージーランドへ一年間留学をしていました。そして、日本人とニュージーランド人の色々な違いを見つけることができました。その中でも特に印象的であったのは、好奇心や積極性の違いです。普段、日本人は見知らぬ人に気軽に声をかけるということはしませんが、ニュージーランドの人々は通りすがりの知らない人にも笑顔であいさつをしていました。私は初め、その光景に目を疑いました。日本では昔から、知らない人と話をしてはいけないという教えがあり、私も親からそのように教育されてきました。しかし、実際に笑顔であいさつされるのは、相手が見知らぬ人であっても、とても気持ちのよいものでした。更に、ニュージーランドの人々は私達留学生にとても興味を示し、彼らが分かる範囲の日本語で話しかけてくれたり、私達にも分かるようにゆっくりと英語で話しかけてきてくれました。彼らの積極的な行動は、私達留学生にとってとても安心できるものでした.外国人が日本人に抱くイメージというものは、まじめで謙虚で消極的だそうです。私はそれを聞いたとき、まったくその通りだと思いました。私は、日本で外国人を見かけたことは何度もありますが、話しかけてみようとは思いませんでした。外国人と接してみたいとは思っても、なかなか行動に移すことはできませんでした。一年間の留学を通して、積極的にコミュニケーションを取ろうとする態度の大切さを学び、消極的だった自分を変えることができました。
 外国人と触れ合うことで、学ぶことはたくさんあります。実際に外国へ行くことで、自分から積極的に離しかけようとする態度も身につくと思います。外国人の積極的な態度が、私達日本人を変えてくれるでしょう。だから、私は留学制度を変えてもらいたいと思います。いくら日本で英語教育を受けても、実際に外国へ行ってみなければ本当の自分の姿は分からないと思います。

               (以上、約900字)



← ……経験し、自分を変えることが……








←※ 「その光景を不思議に思いました」、あるいは「その光景に違和感を覚えました」ぐらいが適切か。

← さらに、(通例、接続詞はかな書き)

← 話しかけてくれたりしました。



← ……消極的ということだそうです。


※ この段落の内容は、それ自体はよいが、必ずしも課題に応えているとは言いがたい。
 「コミュニケーション能力がついた」という事例をもってくるようにしたい。


※ 結論部も課題に応えているとは言い難い。「期待する授業」をもって締めくくるようにしたい。
 結局、初めの「留学制度」の提言が不適切であったということになるか。


講 評
一、内容と構成
 
 答案に注記したように、ニュージーランドでの体験それ自体はよいが、それが必ずしも授業への期待の裏づけになっているとはいえない。したがって、結論部も課題から外れたものとなっている。これは、これも注記したように、初めの提言が適切でないことに起因すると考えられる。改めて、「授業に期待すること」を考えてみたい。
 ニュージーランドでの体験から察するに、文化の違いに大きな感化を受けたと考えられるので、「カルチャーショック」をキーワードにして、内容を組み立ててみるとよい。

〔構成例〕
 第1段落 − 授業への期待(要点を簡潔に)
 第2段落 − ニュージーランドでの体験(文化の違いに戸惑った
         こと、ショックを受けたこと)
 第3段落 − 体験を基にした授業内容の検討
 第4段落 − 検討から導かれる結論

二、表記と表現
  
  誤字・脱字はない。
  一文が長すぎる。(初めの段落と終わりの段落の各文。および、
 第2段落の末尾の文) ※ 主語・述語がねじれたり、文意が散漫
 になったりするので、なるべく短く切ってつなぐようにする。

三、評点

  ○ ランク―C、得点―65


授業への期待を「異国の文化を日本人と外国人の両方から学ぶこと」とし、
全面的に書き直す。

書き直した答案 添削例・諸注意
 私が大学に期待するのは、異国の文化を日本人と外国人の両方から学ぶことです。この学習を通して「実践的コミュニケーション能力」を身につけられると思います。
 私は一年間ニュージーランドに留学していました。初めは文化の違いに戸惑いを感じることもありました。中でも、特にカルチャーショックを大きく感じたことがありました。それは、朝学校へ出かける時に、「行ってきます」という代わりに抱き合い、ほほにキスをすることです。日本で生活していた私にとって、その行いはとても恥ずかしく思えました。しかし、ニュージーランドの人々にとっては、それは当たり前のことなのです。一年間滞在してみて、これだけではまだニュージーランドを知ったことにはならないと思いました。文化というものは、それほど深く、そして、学ぶ価値があると思ったのが、私が文化に興味を持ち始めたきっかけでもあります。そのような経験から、外国の文化を学ぶために、大学に期待したいことが二つあります。
 まず一つ目として、実際に海外生活を経験したことのある方から、その国の文化と日本の文化についての話を聞くことができる機会を設けてほしいことです。実際に異国の文化を体験した人の話を聞くことによって、その国の文化を知ることができます。「郷に入らば郷に従え」の精神を身につけるためにも、このような機会を設けることは大切だと思います。それに、文化を知るだけでなく、理解が深まる機会ともなるでしょう。
 次に、外国人の方からその国の文化を紹介してもらう機会を設けてほしいことです。私の体験からしても、日本人にとっては大きなカルチャーショックかもしれないことがその国の人には当たり前のことであることも多いでしょう。それを理解することが必要だと思います。それに、直に話を聞いているときなら、疑問に思ったことをすぐ質問することができます。疑問を持ち、質問しようとする心が外国の人とコミュニケーションを取る練習にもなると思います。だから、実際に外国の方の話を聞くことにより、その国の文化を学び、理解するだけでなく、積極的にコミュニケーションを取ろうとする態度も養われると思います。
 私はコミュニケーション能力を身につけて、目をグローバルな世界に向けたいとも思っているので、異国の文化を日本人と外国人の両方から学べる授業をぜひ設けてほしいと思います。これから先、国際化社会を目指す日本人として、私はコミュニケーション能力を養い、色々な国へ日本文化を紹介していきたいとも考えています。

              (以上、約1100字)






← 中でも、大きなカルチャーショックを受けたのは、朝学校へ……




← 当たり前のことなのだと分かりました。
← ……と思いました。それをきっかけに、私は文化というものに興味をもち始めました。



← 一つは、……
※ 「まず、〜〜。次に、〜〜。」とするか、「一つは、〜〜。もう一つは、〜〜。」とする。






← もう一つは、

















◎ それまでの受動的な姿勢から、おしまいの一文で能動に転じているので、姿勢に積極性が感じられる。。


おしまいの一文がこの論考を救っているとも言える。
内容はAランク、文章を整えれば90点台。


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A 「外国語と私」

(上智大学 外国語学部・ドイツ語学科、推薦入試)

課題文の大意と設問
〔 課題文の大意 〕(※ 原文は42字×44行 … 約1800字)

 私たち日本人は外国語に対して特殊な見方や考え方をもっているようで、強い憧れを抱いている人が非常に多い。日本以外の国ではそのようことはなく、むしろ、外国語は嫌なもの、排斥すべきものといった不信感が強い。では、なぜ日本人が外国語に憧れを抱くかというと、歴史的に日本は世界の文明の中心から遠く離れた島国であったことに起因している。しかし、「国際化時代」にあって、依然として外国語に憧れているのは、果たして日本にとっても個人にとってもよいことなのか考えてみる必要がある。
          (鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』より)

〔 設 問 〕
 課題文の内容を参考にして「外国語と私」という題で自分の考えを800字以内にまとめて記述して下さい。


はじめの答案 添削例・諸注意
 日本人は外国語、とりわけ英語にただ漠然と好感を抱き、強い憧れを持っている。目的があるわけでも、外国語を使ってやりたいことがあるというわけでもない。それに比べ欧米の大国では逆に、外国語は恐ろしいよそ者であり、排斥されるべきものとして見なされることが多い。日本人のこの外国語に対しての憧れの背景には、戦前・戦後の「日本」と「外国」との関係や鎖国、日本が島国であることなどがあげられる。
 では実際に、ただ漠然と外国語に憧れて、自分も外国語の一つくらいはできなくてはと思い続けることは日本人にとって、また個人にとって意味のあることなのだろうか。確かに、憧れが強かったために、外国語を受け入れ、外国文化を多く取り入れたことで、日本独自の文化や憲法、そして生活がよりよくなった。また例えば、外来語は今の日本になくてはならないものであり、それを使うことで日本語表現がより豊かになっていることも事実であると思う。しかし、私は実際に米国に一年間留学をしてこの憧れの問題点に気づかされた。米国では英語が全く通じなく、聞きとれなかったのだ。また実際に最も困ったのは、友人に日本のことについて聞かれたときだった。お茶、舞妓、忍者、名前の漢字の意味、などについてだ。私は日本に戻ってきてから、改めて日本文化に触れ、お茶やお花、狂言を学んだのを覚えている。
 外国語を学ぶことは、私にとって、日本人以外の人に接し、文化を学ぶための手段であると思う。またその文化と日本文化との共通、相違点を見つけることで視野を広げ、自分を大きく成長させてくれることだと私は考える。従って、ただ外国語に憧れるのではなく、まず自国語、自国の文化についてよく学ぶことが大切だと思う。国外で通じない、という理由で日本語を劣ったものとするのではなく、自分達だけが持つ尊い言語だと見ることだ。その上で、外国語を学び、相違点を意識し、よい点を自らの糧とすることが大切なのだ。

             (以上、約800字)
※ 冒頭に「筆者によれば、」と補っておくとよい。
← これといった目的があるわけでもないのに、外国語が話せたらいいと思っている人が多い。それに比べ、他の多くの国では……
← 日本人の外国語に対するこの憧れの背景には、戦前・戦後の「外国」との関係や、日本が島国であるということなどがある(ということである)。




※ 「日本独自の……」の文はどういう意味か。また、「文化・憲法・生活」は何をもとにした並列か。
※ 根拠脆弱。横文字がコミュニケーションを困難にしている例もある。
※ 留学体験の話をこの段落の冒頭に持ってくるとよい。そうすれば、それを根拠として、「論」を展開しやすくなる。

← 改めて……を学ぶはめになった。

← ……文化を学ぶための手段である。(「私にとって」とあるから、自分の考えとして断定する。続いて「また」とあるから、次の文も同様に断定する)。
※ 「従って、……」の文を「これによって、……大切だということが分かった」とし、留学から帰った後の話につなぐ。ついでに、そのあとの文も引き連れていくとよいか。

「講評」では、ドイツ語についても触れておこうと付記しておく。

書き直した答案 添削例・諸注意
 筆者によれば、日本人は外国語、とりわけ英語にただ漠然と好感を抱き、強い憧れを持っている、これといった目的があるわけでもないのに、外国語が話せたらいいと思っている人が多い、それに比べ、他の多くの国では逆に、外国語は恐ろしいよそ者であり、排斥されるべきものと見なされることが多い、 日本人の外国語に対するこの憧れの背景には、戦前・戦後の「外国」との関係や、日本が島国であることなどがある、ということである。
 そこで、ただ漠然と外国語に憧れているということについて考えてみたい。私は高校2年生の時に、米国の東海岸に一年間留学をして、この憧れの問題点に気づかされた。米国では、自信のあった英語が全く通じず、聞き取ることさえ困難だった。また、実際に最も困ったのは、友人に日本のことについて聞かれた時だった。お茶、舞妓、忍者、名前の漢字の意味、などについて聞かれても、うまく答えられなかった。日本にいた時には深く考えてみたこともないことだった。私は日本に帰ってきてから、改めて日本文化に触れ、お茶やお華、狂言を学ぶはめになった。
 この体験から、私は外国人と話をするには自国の文化を知らなければならないことを思い知った。私はそれまで、国外で通じない日本語や特異な日本文化を劣ったものと思っていた。しかし、改めて振り返ってみて、日本画や日本文化は自分たちだけが持つ尊い言語であり文化であることを知った。
 私は海外留学によって日本文化について反省させられることになったわけだが、1年間の留学生活の間に日常生活に必要な会話程度はできるようになった。生活の中で英語を理解することによって、自分の世界が少し広がったような気がする。次は、小さいころからの夢である「グリム童話」の世界を知ることである。グリムの世界を原語で理解するとともに、それが生まれた風土を知りたいと思う。それによって、私の世界はもう一つ広がるだろうと期待している。

             (以上、約800字)










※ 「そこで、……」の文を削除する。























◎ ドイツ語については、たたみ込むような格好だが、理由も付いて、納得できるものになっている。

第2段落で削除した一文の代わりに、末尾に
「日本の『お伽話』との比較も楽しみにしている」とでも付け加えれば、
留学体験からの反省を生かした、よい締めくくりとなろう。

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B 「歴史的に作られた場所の地誌」

(お茶の水女子大学 文教育学部 人文科学科 推薦入試)

課題文の大意と設問
〔 課題文の大意 〕(※ 原文は40字×44行 … 約1800字)

 築地は人や商品、資本、情報、技術のトランスナショナルな流れの一大中心点であり、複合的な都市エリアの中心に据えられた特殊な場所である。築地には、一方に17〜19世紀の徳川時代の商人文化、もう一方には昔ながらの暮らしを現代に構築する都市文化があり、その両者が歴史的記憶によって結びついている。東京の町では、地域社会の形成・維持において伝統性と場所の感覚が互いに結びついているが、築地は東京都心のインフラの鍵となる位置にあり、都市計画者や商人、消費者にとって死活問題の場となっている。
                       (テオドル・ベスター『築地』より)

〔 設 問 〕
 あなたがよく知っている、歴史的に作られた場所を一つ挙げて、そこの地誌を600字以内でまとめなさい。


はじめの答案 添削例・諸注意
 私の家の近くには「玉川上水」が流れている。この川は江戸時代の初期に、人口が急増した江戸の町に水を送るために掘られた人工的な川である。この工事は玉川兄弟が命じられたものであり、多摩の羽村から都心の四谷まで全長40キロメートルに渡る大工事だったにもかかわらず、、たった8か月で完成した。現在は少量の水しか流れていないが、川の掘られた当時は激流で、死人が大勢出るような大変な工事だったため、先導した玉川兄弟の功績を称えて、「玉川上水」と名づけられた。
 この川は、水不足で深刻だった流域の田畑にも分水した。玉川上水完成当時は周辺に畑がたくさんあった。現在では畑はあまり残っていないが、川の近くの地域では、秋になると豊作を祝う祭りが見られる。例えば、小平市の「鈴木囃子」は玉川上水に感謝する祭りと言われる。また、人工的な川なので、堀が深く、河川敷がないため、自然の川よりも人間の居住地の近いことが特徴である。今も小金井の土手には多くの桜が植えられているが、これは工事の際に亡くなった人々の霊を慰めるために植えられたと伝えられる。江戸時代には、殿様が見物に来るほどの美しさだったようだ。今でも上水の両側は高い木々に覆われ、空から見るとグリーンベルトになっている。
 玉川上水は、江戸時代の人々の生活に欠かせない川であったが、現代の人々に当時の様子を想起させる面影を残しており、文化的価値を併せ持っていると言える。

             (以上、約600字)



← この工事は多摩の羽村から……に渡る大工事だった。この工事を命じられた玉川兄弟はこれをわずか8か月で……。
※ 「激流」というほどではないと考えられるので、流水跡などから規模を推測してみよう。

← 玉川上水は江戸に水を送るばかりでなく、流域の田畑にも分水した。上水完成当時の村々の水不足は深刻だった。












※ 「歴史的」と、ひとこと入れておきたい。


玉川上水は、東京の西郊・羽村の堰で多摩川から取水して、東に向かって流れている。

書き直した答案 添削例・諸注意
 私の家の近くには「玉川上水」が流れている。この川は江戸時代の初期に、人口が急増した江戸の町に水を送るために掘られた人工の川である。この工事は多摩の羽村から都心の四谷まで全長40キロメートルに及ぶ大工事だった。この工事を命じられた玉川兄弟はこれをわずか8か月で完成させた。現在は少量の水しか流れていないが、流水跡を見ると、直径5メートルほどの円水路となっている。この中を満々とたたえられた水が流れていった。この大工事を指揮した玉川兄弟の功績を称えて、「玉川上水」と名づけられた。
 玉川上水は江戸に水を送るばかりでなく、流域の田畑にも分水した。上水完成当時の村々の水不足は深刻だった。現在では畑はあまり残っていないが、川の近くの地域では、秋になると豊作を祝う祭りが見られる。例えば、小平市の「鈴木囃子」は玉川上水に感謝する祭りと言われる。また、人工の川で、河川敷がないため、自然の川よりも人間の居住地の近いことが特徴である。今も小金井の土手には多くの桜が植えられているが、これは工事の際に亡くなった人々の霊を慰めるために植えられたと伝えられる。江戸時代には、殿様が見物に来るほどの美しさだったようだ。上水の両側は今も高い樹木に覆われ、空から見るとグリーンベルトになっている。
 玉川上水は、江戸時代の人々の生活に欠かせない川であったが、現代の人々に当時を想起させる面影を残している。歴史的、文化的価値を合わせもっている場所と言える。

             (以上、約600字)

















◎ 「鈴木囃子」が「地誌」の優れたアクセントとなっている。小金井の土手の桜の話も「地誌」に彩りを添えている。


この種の課題に対しては、身近な所で題材を探すのがよいようだ。


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C 「手仕事の生活道具の世界」

(お茶の水女子大学 文教育学部 人文科学科 推薦入試)

課題文の大意と設問
〔 課題文の大意 〕(※ 原文は45字×73行 … 約3200字)

 道具というものは、例えば包丁は食材を切るための道具であるように、目的の「ために」用いられる手段であるが、目的ー手段の連鎖は結局はわれわれが「生きるため」ということに行き着く。これに関して、手仕事の生活道具も大量生産の生活道具も、「目的ー手段」の関係においてはどちらも変わりはないが、生活とのつながりに違いがある。
 それを、手仕事品の漆椀や白木の盆で考えてみよう。椀は、熱い汁を注いでも、プラスチック製品とは違って熱くはならず、むしろ温かみが伝わってくる。そこからは、手間隙をかけた作業へのつながりが感じられる。また、漆は長い年月にわずかしか採取できない貴重なものであることや、盆の木目模様から年輪という年月を考えると、それらはわれわれを森の木々へと向かわせる。
 手仕事の生活道具はわれわれを自然界につなぐのであるが、われわれが手仕事品を好むのは「つながりの豊かさ」にあると考えられる。
      (丸田健『手仕事道具から開ける世界へのつながり』より)

〔 設 問 〕(一部改題)

 著者は、道具と自然とのつながりについて述べているが、これに続く文章では人間とのつながりや地域とのつながりについても述べている。それ以外にも、歴史(過去)とのつがりや芸術とのつながりなど、いろいろなつながりが考えられる。このような道具とのつながりを一つ取り上げ(上に挙げたものを選んでもよいし、自分で考えたものでもよい)、それがどのようなつながりなのかを800字以内で説明しなさい。


はじめの答案 添削例・諸注意
 手仕事品は「手」という文字が含まれているとおり、職人という「人の手」が深く関わっている。職人は上質な製品を提供するために専門的な知識を蓄え、技術向上の修業を積み重ねている。それゆえに、手仕事品には製作者の強い気持ちが込められている。
 例えば、私の実体験を例に挙げると、豆腐の巡回販売がある。わたしの家の周辺を巡回している豆腐屋は実際に豆腐を作っている職人自身が巡回しているため、職人から直接豆腐を受け取ることができる。私の家族では、幼い頃からその豆腐を買っていたのだが、ある時職人のシワのある手を見て深く感動したことを今もよく覚えている。いつも何気なく買って食べていたが、寒い日にも冷たい水を使って豆腐を作っているのだと考えたら、その豆腐がとても価値があり、温もりをもったものに感じられた。また、その人に話を聞いたところ、原料の大豆は国産で、無農薬栽培を選んでいると話していた。しかし、いくら良い原料を使っているからといって、高値で売っては客層が限られてしまう。できるだけ多くの人に味わってもらいたいという思いから、昔から変わらない手ごろな値段を維持しているらしい。それを実現させているのは、大豆農家とのつながりで、大豆を安く分けてもらっているそうだ。豆腐はたった100円だが、様々な人の思いやりから生まれているのかと思うと、買い手である私たちも商品に特別な思い入れが生まれる。
 つまり、私の考える手仕事品とそれを使う側のつながりは、手仕事品の製作者である職人の気持ちのつながりだと思う。一つ一つのものに職人は情熱や思いやりを込めて製作し、その努力や気持ちを、使い手である私たちが製品を通して感じることによって、本来の目的とは違ったつながりを感じるのだろう。

             (以上、約600字)








← ……職人自身である。このため、
← 私の家では私が幼い頃から




← ……作っているのだと思うと、


← 無農薬栽培のものを選んでいるということだった。
← ……限られてしまう。そこで、できるだけ
← ……維持していることも話の端々から察せられた。
← 大豆農家とその人との長い間のつながりで、

← 私たちにも豆腐に特別な……

※ 「つまり」を削除。
← 職人の気持ちとのつながりにあると思う。
← ……感じることによって、ただ作るという目的とは違ったつながりが生まれるのだろう。

豆腐は食べ物であるが、「生きるため」という連鎖においては道具と見てよい。
じゅうぶん合格答案であるが、念のため、字句調整をしておこう。

書き直した答案 添削例・諸注意
 手仕事品という言葉には「手」という文字が付いているとおり、これには人の手、つまり職人の手が深く関わっている。職人は上質な製品を提供するために専門的な知識を蓄え、技術を磨く修業を重ねている。それゆえに、手仕事品には製作者の強い気持ちが込められている。
 例えば、私の実体験では、豆腐の巡回販売がある。わたしの家の周辺を巡回している豆腐屋は、実際に豆腐を作っている職人自身である。このため、職人から直接豆腐を受け取ることができる。私の家では、私が幼い頃からその豆腐を買っていたのだが、ある時私は職人のシワのある手を見て深く感動した。いつも何気なく買って食べている豆腐が、寒い日にも冷たい水を使って作られているのだと思うと、その豆腐がとても貴重なものに思われ、同時に温もりが感じられた。その豆腐屋さんとはいつか話をするようになったが、原料の大豆は国産で、無農薬栽培のものを選んでいるということだった。しかし、良い原料を使っているからといって、高値で売っては客層が限られてしまう。できるだけ多くの人に味わってもらいたいという思いから、昔からの手ごろな値段を維持しているとも話していた。事実、今も1丁100円なのだが、それを実現させているのは、大豆農家とのつながりで、大豆を安く分けてもらっているからだそうだ。豆腐一つにも人と人とのつながりがあって、それぞれの人の思いやりから生まれているのかと思うと、買い手である私たちには特別な思い入れが伝わってくる。
 私の考える手仕事品とそれを使う側のつながりは、手仕事品の製作者である職人の気持ちとのつながりにあると思う。一つ一つのものに職人は情熱や思いやりを込めて作り、その努力や気持ちを、使い手である私たちが製品を通して感じることによって、ただ作るという目的とは違ったつながりが生まれるのだろう。

             (以上、約600字)























◎ ここに(豆腐屋と大豆農家との間に)つながりを見出しているがいいね。
 ついでに、この段落の末尾に「その思い入れによって私の気持ちは大豆畑に誘われる」と付け加えてはどうだろうか。課題文の「森林」に呼応しよう。





題材は身近な所で探すに限る、というところか。


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D 「読書の効用」

(お茶の水女子大学 文教育学部 人文科学科 推薦入試)

課題文の抜粋と設問
〔 課題文の抜粋 〕 (本文は 40字×88行 − 約3500字

 世の中には、お金と時間を費やすんだったら、その分だけの見返りがないと事を始める気にならない、という人も多いだろう。たとえば、英会話教室へ通うなら、時候の挨拶や店員とのやりとりを英語でできるようになるとか、スポーツジムに通うなら、筋肉がついたりダイエットにもなる、といった具合である。しかし、@読書にはそのような目に見えるメリットは期待できない。実はそこにこそ読書のおもしろさがあるのだが、そのことがわかるまでには、かなりの数の本を読む必要がある。
 (中略)

 一つはっきりしているのは、私の場合、本を読むことによって、自分がいかにものを知らないかを確認できる、ということだ。自分は知らないことだらけだ、ということが本を通してわかる。つまり、知らないことを知ることで、初めて「それを知らなかったこと」に気づくのである。そして、知らないことを知ることは、常に気持ちがいい。
 数年前になるが、私は誰かに会うたびに「伝書鳩」のことを話題にしていた。自分の中で「伝書鳩ブーム」が起きていたのだ。
 (中略)
 当時、新聞記者は新聞社の窓から空を見上げ、まだかまだかと鳩の現れるのを待ったという。この鳩が数々のスクープをもたらした。昭和20年代半ば頃までは盛んに行われていたというから驚きだ。
 そんなことを知ったところでどうなるというものでもないが、A知る前と知った後でが、世界が違って見える。天上につながる長い階段があるとしたら、一段上に昇って、その分、下界の見晴らしがよくなった、、と言えばよいだろうか。
                       (岡崎武志『読書の腕前』より)

< 問一 >
 下線部@「読書には目に見えるメリットは期待できない」とあるが、ここでいう「目に見える」、また逆に「目に見えない」とはどういうことか。文意を踏まえて説明せよ。

< 問二 >
 下線部A「知る前と知った後では、世界が違って見える」について、あなたが読書を通じてこれまで経験した同様のことがらについて、
600字程度で述べよ。 


「問一」の答案 添削例・諸注意
 読書における目に見えるメリットとは、例えば、読書感想文などだろう。読書感想文では、自分がその本から得た知識や感想を文を通して他人に発表することができるし、コンクールなどに応募すれば評価を受け、表彰を受けるというメリットがある。これは、本を読んだことによって得たものを自分の中にとどめるのではなく、文字に起こして具現化し、読書という行為を目に見えるものにしているということである。また、発表することによって、他人の目にも触れるため、他人からも目に見えるといえる。
 これに対し、目に見えないメリットとは、読書による成果がすぐには現れないことである。例えば、旅行に行って、ある著名な人物の石碑に出会ったとする。その場合、自分が昔その人物についての本を読んだことがあったなら、ただ何も知らずに見た場合より親しみが湧くだろう。この時の親しみの度合いは他の人には分かるものではなく、自分だけにしか分からないものなので目に見えるものとはいえない。だから、これが目に見えないメリットといってよいだろう。
 この目に見えないメリットは、他人に評価されることはない。だが、石碑をきっかけに人物についてのことがらがよみがえり、少なくとも自分を癒してくれるので、読書というものが有益となり、目に見えないがメリットになっていると言えるのである。

             (以上、約600字)

← ……などだろう。この場合、自分が……


石碑の例を、よくぞ思いついたものである。
本番では限られた時間での勝負であるから、
最初に思い浮かんだ事例で書くのが一番よいようだ。

「問二」の答案 添削例・諸注意
 私は以前、北朝鮮の脱北者が出版した手記を読んだことがある。その手記には、平和な日本に住む私達には想像もできないような内情が記されていた。現在の北朝鮮には強制収容所が存在しているという。手記の著者はその強制収容所から逃げてきた人だった。収容所の中では、ささいな罪で連行された人やその家族が過酷な労働と劣悪な生活環境を強いられているらしい。脱走を試みて失敗した人は処刑され、家族や知人は拷問を受ける。一度入所すると二度と出られず、収容所内で結婚させられ、生まれてきた子どもは死ぬまで収容所内で暮らす運命にある。さらに、収容所内では金日成や金正日の存在さえ教えられず、世界から完全に隔離されて生きていくのだという。
 私は手記を読んで初めて北朝鮮の収容所のことを知ったが、問題を解決する手段を得たわけではでもなく、ただ問題を知っただけである。しかし、この一冊に出会ってから、新聞やテレビで北朝鮮の報道に接すると、必ず収容所のことを考えるようになり、日本の平和を改めて認識するようになった。最近各国が北朝鮮に対して制裁を強めたため、北朝鮮では脱北者が増えないように、新しい身分証の発行や家族の不在調査を行っていると報道されている。そして、不在者の家族はどこかへ連行されているようだ。
 私は手記を読んだことによって、報道されている北朝鮮の裏を推測できるようになった。

             (以上、約600字)



※ 「現在の……」で改行する。



← ……強いられている。(※ いちいち「らしい」や「ということである」をつけると、読み手もわずらわしいので、おしまいに一言付ければよい。














読書の効用がこんなところにも現れているといえる。


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E 「芸術と娯楽の境界」

(慶応義塾大学 文学部 自主応募制推薦入試)


この入試では、「総合考査T」と「総合考査U」がある。
「T」は約10,000字(31字×345行)の長文に、300字の記述が2問と、
100字程度の日本語文の英・独・仏・中への訳が2問付いている。

ここでは「U」を取り上げる。

総合考査U
 新聞・雑誌・テレビなどのメディアでは、「芸術」と「娯楽」を分けて扱う傾向が見られます。「芸術」と「娯楽」の境界は、どこにあると思いますか。美術・舞踊・音楽など、あなたの興味がある分野から、具体的な事例を挙げて論じなさい。(400字以内)


はじめの答案 添削例・諸注意
 「芸術」と「娯楽」と境界について、例えば音楽においては、曲や歌の内容と演奏技術との2つの点が考えられます。まず、前者について、例えばポップミュージックとクラシック音楽を比べてみると、ポップミュージックはたいてい娯楽番組の中で演奏され、時間も夜の比確的早い時間に多いのに対し、クラシック音楽の場合は比較的遅い時間や休日の午前中といった、人々がのんびりする時間に多いと思います。次に、後者について、その演奏技術で人々をどのくらい感動させることができるかという点で比べてみると、個人的に趣味として楽器を演奏する場合、それは娯楽に過ぎず、これに対して、プロの音楽家の演奏は芸術であるといってよいでしょう。
 ただし、ポップミュージックにも今や古典風になっているものもあり、アマチュアでもすてきな演奏をする人がいることを考えると、両者の境界ははっきりしないと考えられます。

             (以上、約400字)


※ 曲や歌詞(前者)に、ポップミュージックはともかく、クラシック音楽を見るのは苦しいので、ひとまず、芸術→クラシック音楽、娯楽→ポップミュージックという図式で考えてはどうか。

※ 個人的な演奏→娯楽、プロの演奏→芸術という図式には説明不足、ないし飛躍があるので、上の注と合わせて、図式を立て直したい。

◎ 「感動」をキーワードにするとよいか。
 そうすると、「古典風」と合わせて、境界が見えてくるかもしれない。

音楽の本質を「感動」ないし「癒し」に求めて、
答案は次のようなところに落ち着いた。

書き直した答案 添削例・諸注意
 例えば音楽では、大きくはポピュラー音楽とクラシック音楽に分けられる。これらをラジオやテレビで放送・放映される時間帯で見てみると、前者は夜の比確的早い時間に多いのに対し、後者は休日の午前中といった、人々がのんびりする時間に多い。これを「芸術」と「娯楽」の図式で考えると、夜の早い時間には娯楽番組が多いことから、ポピュラー音楽は「娯楽」に、クラシック音楽は「芸術」に分類される。
 では、両者の境界にあるものは何かとなると、音楽の本質は「癒し」にあり、これは両者に共通するが、両者の間にある違いはその程度にあると考えられる。すなわち、娯楽における癒しは一時的なものであるのに対し、芸術のそれは永続的なものと考えられるのである。ただし、ポピュラー音楽にも時代を超えて歌い継がれているものもあることを考えると、ポピュラー音楽にも芸術に類するものがあると考えなければならない。
 こう考えると、芸術と娯楽の境界は、音楽では癒しの持続性の程度にあると言える。

             (以上、約400字)









◎ ともすれば、盛り沢山になりかねないところ、コンパクトにまとめながらの運びとなっている。







◎ 本試論は音楽を例に論じたものであるから、おしまいの段落にあるように、「音楽では」のひとことを忘れないようにしたい。


「U」では、次のような課題について考えが求められている。
「さまざまな暴力、その共通点」
「家族は偶然の所産か、必然の所産か」
「大人になるとは自らの理性を使用する勇気をもつこと」(カント)


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F 「セキュリティー社会」

(慶應義塾大学 法学部 一般入試)

【 問 題 】

 以下の文章を読み、「政治的空間としての<公共空間>」における責任と自由に関する著者の主張を400字程度でまとめなさい。そのうえで、「セキュリティー社会」についての著者の見解に対して、その是非も含めて、あなたの考えを述べなさい。(1,000字以内)〔90分〕

課題文(出典:和田信一郎『メディアと倫理』)は約3600字の長文であるが、
ここでは答案での「まとめ」をもってその大意に代える。

なお、「1,000字以内」というのは、合計で1,000字以内ということである。

二度目の答案 添削例・諸注意
 政治問題に対する現代人の発言は無責任である。例えば、死刑の是非を問われると、簡単に賛成と言う。これは「政治的空間」としての<公共空間>の中で保護されているためである。もし、死刑執行人を無作為に選び、選ばれた者は拒否できないという法律があるなら、人々は安易に死刑に賛成とは言わなくなるだろう。これに対し、例えば古代ギリシアでは、犯罪者を死刑にしろと発言すれば、その責任は自分が負わなければならなかった。ただし、これは「公共空間」において自己を顕現する好機であり、その責任は共同体に対する愛であったから、そこには自由があった。
 保護された空間に留まり続けていれば、政治的負担は免除され、他者を気遣うこともなくなるが、他者を信用しないという事態も起きる。そうなると、「お茶の間」にこもって、インターネットで他者を非難することにもなる。到来するセキュリティー社会とはこのようなものであるから、個々人には「公共空間」に属しているという「覚悟」が求められよう。
             (以上、約400字)
 私は高校1年生のときに、文化祭の実行委員をしていた。クラスの出し物を決めるとき、企画の欠点を指摘する人がいた。それは重要なことなので、私たちは受け入れて検討材料にしたが、改善案を出しても、その人は欠点をあげつらうばかりであった。では、どうすればよいのか、代替案を求めても、それには答えなかった。文句を言うばかりなので、彼に非難が集中し、クラスの雰囲気が悪くなってしまった。すると、彼は自分のブログにクラスメイトの悪口を書き始めた。書かれた人たちが彼のブログに彼の悪口を書き返したので、まさに著者の言うネット上の中傷へと発展してしまった。
 ブログでの中傷合戦はともかくとして、私たちの周りには、何かことが起これば事態や人を非難するだけの、言いっ放しの人が多いように思う。例えば環境問題や福祉問題、あるいは消費税について、何か自分に都合の悪いことがあると、二言目には「政治が悪い」と言う。もし、本気でそう思うなら、自分が政治の世界に乗り出せばよい。自分が乗り出せなくても、政治の世界には代議士や市町村議会議員がいる。そういう人たちを通じて代案の実現を図るなり、世論を喚起するなりすればよい。その覚悟があれば、自分の属する共同体に責任を果たすことになり、もしも自分の発言が功を奏するようなことがあれば、自由を実感することにもなろう。
 公共空間に必要なのは、著者の言うように、個々人の「覚悟」である。
            (以上、約550字)







← 犯罪者を「死刑にしろ」と……














←◎ この事例が出色。










← ……書き返したので、ネット上の中傷合戦になってしまった。














◎ 問題文では著者の見解に対する是非を問うているが、それにもきちんと答えている。

高校時代の事例が世相のミニアチュアを思わせる。
「理屈をこねまわす論文」が多い中で、
この事例は、しっかりとした「論の裏づけ」となっている。


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G 「同盟国間の信義」

(慶應義塾大学 法学部 一般入試)

【 問 題 】

 ヘラスとよばれていた古代のギリシアでは、異民族ペルシアの侵攻に際しては、すべての都市国家(ポリス)が団結して立ち向かった。しかし、ペルシアの脅威が去ると、アテーナイとラケダイモーンの二つの有力な都市国家を中心に形成された二つの陣営が、対立するようになった。すなわち、アテーナイが強大化し、他の都市国家を圧迫するようになると、脅威を感じた都市はラケダイモーンを後ろ盾にしてそれに対抗しようとしていた。
 アテーナイが着々と帝国主義的に膨張する中で、ラケダイモーンの同盟国であるコリントスは、アテーナイとの間で戦闘状態に入った。そしてコリントスは、それまで存在していた両陣営間の休戦協定はもはや破られたとして使者を派遣し、ラケダイモーン市民にアテーナイに対する開戦を決意するよう訴えた。
 以下に掲げたのは、そのコリントスの使者の発言と、それに反論するアテーナイの使者の発言である。両者の発言を検討し、貴方がラケダイモーンの市民であったら、どのような決定をすべきだと考えるかを自分なりに論じなさい。なお、解答にあたって史実との適合性を考慮する必要はない。
                             (1,000字以内、90分)
課題文の大意
〔 コリントス側の発言 〕
 ラケダイモーン人諸君、アテーナイを強大化させた責任は諸君にある。もしヘラスの諸都市の開放を尊ぶべき義務と考えるなら、アテーナイの膨張を傍観視すべきではなかった。休戦協定が無に等しくなった今、我々はアテーナイから自らを守らなければならない。アテーナイ人は進取の気性に富み、強い行動力をもって計画の実行に当たる。これに対し、諸君は現状の維持を慮って、必要な行動に事欠いている。諸君は他を傷つけなければ傷つけられることなく自らを守れると思っている。しかし、今のアテーナイはかつて我々ヘラスがペルシアと戦った当時のアテーナイではない。このような国を眼前にしては、諸君はアテーナイ政策を変えなければならない。友好国や同族の国を敵に渡すことのないよう、例えばアッティカに侵攻し、同盟国に援助を送る必要がある。諸君が積極的にそうするなら、我々は貴国とともにあるであろう。諸君は先祖伝来の指導者としての地位を失うことのないよう心がけるべきである。

〔 アテーナイ側の発言 〕
 我々アテーナイ人はマラトンの戦いでは独力で、サラミスの海戦では最も多くの船と兵を投入してペルシア軍を撃破し、ヘラスの諸都市を守った。これによって、当時の対ペルシア同盟軍は我々を頼りにして統治権の設立を依頼してきた。我々は今日まで統治を強要されているのである。然るに、多くの国からこの統治を非難されているようでは、我々は安全とは言えない。そこで、叛乱を起こした国には懲罰を加えるが、そうでもしなければ、我々からの離反者は貴国の手に落ちたであろう。我々は人道にもとることをしたわけではない。弱肉強食は永遠不変の原則であり、それは諸君も認めるところであるが、我々は同盟諸都市に過酷な態度で臨んでいるわけではない。裁判においても平等な法に則って処罰を行っている。我々の権力の行使は他の国に比べれば寛大なのだ。ラケダイモーン人諸君、他人の言動に惑わされて災いを招いてはならない。我々両国に決定権がある限り、和約を守り、協定に従って合法的に紛争を解決するよう諸君に要求する。

            (トゥーキュディデース『歴史』小西春雄訳より)

課題文は3800字程度の長文で、上記の大意は
それぞれ約400字(計約800字)である。

二度目の答案 添削例・諸注意
 コリントス側の発言によると、ラケダイモーンの市民は自発性や積極性に欠け、現状が維持できればよいと考えている。また、自分達が平和ならば、他国が危険な状態でも意に介さないが、これは現今の情勢ではかえって危険である。一方、アテーナイ側の発言では、ペルシア戦争の際はアテーナイの戦力のおかげでヘラス、つまりギリシア世界の勝利が得られ、諸国はその後の防衛をアテーナイに頼ったため、支配権を獲得した。だから、この支配を非難するのは当たらないと言う。
 私はラケダイモーンは戦争に参加するべきではないと思う。アテーナイが「和約を守り、協定に従って合法的に紛争を解決するよう」要求している限り、ラケダイモーンが侵略されることはない。戦争を行えば、必ず死傷者が出て、ラケダイモーン自身の損失も大きい。しかし、コリントス側が指摘しているように、ラケダイモーン人は消極性や自己中心的態度については改善するべきである。国は市民の幸福のために政治を行い、よりよい生活を目指すものであるが、もし他国の圧力によって苦しめられることがあったら、自分たちの自由な生活が損なわれる。この時、圧力に屈して妥協してしまうと、やがて奴隷化するのが常である。圧力を受けているのが同盟国である場合、援軍を送らなければその国は相手の支配下に入ることになる。こういうことが次々に起こると、やがて自分の国は孤立することになり、自国が危機に陥った際に援軍を求める相手がいなくなるということにもなりかねない。相互に助け合う仲間がいてこそ、自国の防衛も保たれるのだ。
 ラケダイモーンはコリントスとアテーナイの発言から自分達がヘラスの中でどういう存在となるのがよいかを決定しなければならない。様々な利害がある世界で、最も重要なのは「平和」である。他国に援軍を送ることによって生じるのは平和ではなく戦争である。だから、戦争になるようなことは避けなければならない。しかし、圧力によって奴隷化が予想される同盟国がある場合、これを見捨てれば平和は遠ざかる。そこで、考えなければならないのは、ラケダイモーンは開戦についても決定権をもっていること、和約や制約を守らせることのできる国であることである。ただ、アテーナイとと対等の立場に立つためには、アテーナイに匹敵する軍備を整え抑止力をもつ必要がある。
 ヘラスの平和は両陣営の休戦協定によって成り立っているのだから、ラケダイモーンは抑止力によって協定を守らせ続ける努力をするべきである。

            (以上、約1000字)




← ……危険であると言う。














← 国というものはそれぞれ市民の安全と幸福のために政治を……


ラケダイモーンは「軍備を整え抑止力をもつ必要がある」となっているが、
これは現代世界においても、現実的な方策であろう。

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H 「情報経験と直接経験」

(東京大学 後期試験 総合科目V)

 次の文章は、人間の用具使用の功罪の臨界点に関する考察を受けて、記号使用の功罪の臨界点について考察したものである。これを読み、後の問いに答えなさい。(他の一題と合わせて120分)
課題文の概要 (引用文は約 3,500字)
 人間の身のはたらきを拡大・強化する仲立ちの一つは道具の使用で、もう一つは記号、特に言語の使用である。人間は言語をもつことによって経験を蓄積し、知識を共有することができた。これによって、他者の経験世界や過去・未来の世界にまで自分の世界を拡大してきた。その反面、言語の論理に支配されてもいる。
 今日の問題点は、記号を仲立ちとする情報経験が現実そのものになってきていることにある。情報経験が直接経験より圧倒的に多く、質的にも日常生活に大きな意味をもつようになっている。オイルショックなどがその例であるが、情報経験が一次的経験となって生活を支配しているのである。
 これが昂じると、情報によって作り出される世界と人間の自然的身体のもつ機能との衝突となる。これを回避するためには、複雑な情報経験と多重な直接経験との間を往来する感覚能力とその深化が必要になってくると考えられる。
                      (市川浩一『<身>の構造)』より)
 
 この著述は、コンピュータが日常的ではなかった1980年代初頭になされた。今日では、コンピュータ技術の発展によって、仮想世界にひたることが多くなり、現実世界での人間関係が希薄になることや、コンピュータゲームが提供する仮想的な世界や匿名による電子的コミュニケーションでは、現実世界では許されないこともできてしまうことが問題とされている。情報社会における世界経験のあり方について、情報経験と直接経験の関係に関する当時の著者の問題意識や主張と、現在の状況を対比させながら、1,500字以内で論述しなさい。


二度目の答案 添削例・諸注意
 著者は次のように述べている。
 現代生活は言語や記号という情報によって拡大してきた。言語によって経験の蓄積・共有を行い、言語という情報を媒介にして現在・過去・未来の世界を経験している。記号の中の、特に言語は、私達に内在しているかのように自然に使われている。しかし、言語を私達の内在物のように身体に組み込むということは、逆に言語の論理に組み込まれるということになる。このため、現代では記号を仲立ちにした情報経験が現実そのもののようになっている場合があり、その点が問題である。
 また、情報経験が現実の代わりをするとしても、情報経験には直接経験にあるような迫力などの多重性がなく、表層的世界体験しか得られないため、現実から疎外感を感じることがある。そのため、情報経験と直接経験の間に食い違いも起きている。情報世界には直接経験世界では理解しきれない複雑さと抽象性があるため、それらをとらえられないことが疎外感の原因となっている。
 現代人は情報の表面性に合わせるのではなく、情報の抽象性や想像的世界を感覚化する能力が必要である。それは、情報経験と直接経験の間を貫通して両者を重層的にとらえる能力である。

 さて、著者は情報経験を一次的経験とか擬似経験とかと呼んでいるが、ここではこれらと直接経験の関係について考えてみたい。著者は情報経験の影響についてテレビゲームの例を挙げている。確かに、そのバーチャルな世界が幼少年には現実味をもっていると思われるフシがある。ゲームにはバトルものが多く、幼少年は熱中しているうちに、擬似経験を直接経験と錯覚する。問題はそれが生命の軽視につながりかねないことである。ゲームでは、スイッチを入れ直すと、死んだはずの者が生き返っている。近年、子どものいじめや自殺が後を絶たないのは、生命はよみがえるものと思い込んでいるのではないかとさえ考えられる。現に起きている問題は深刻であるから、バーチャルという情報世界は現実の世界とは異なることを早期に教える必要がある。
 もう一つはオイルショックの例である。あの時はトイレットペーパーが店頭から消えたということである。これは、中東戦争が激しくなって、産油国が価格を上げ、産出制限を行うと発表したため、火力発電をはじめ産業に影響の出ることが懸念された中で、紙製品の生産ができなくなるという情報が流れたためであった。その情報は単なる風評で、虚偽であることが分かったが、買占めに走った人や手に入れ損ねた人には風評が一次的情報となっていたのだ。今度の東日本大震災の時も首都圏のスーパーマーケットの棚からトイレットペーパーやカップ麺が消えていた。当日はJRの電車が止まり、都内では大渋滞に陥ったものの、翌日からは一般の人々の生活はほとんど平常どおりであった。建物の倒壊や道路の損壊がなく、停電もしなかったことを考えれば、日常生活に大きな支障のないことは容易に想像できたはずだ。パニックに陥りかけたのは、情報と現状との見極めに欠けていたため、言い換えれば、目先の少ない情報で判断したためであった。
 筆者は情報経験と直接経験との間を行き来する能力の必要性を説いているが、大切なのは情報の真偽を見極める能力であろう。

             (以上、約 1,400字)
←◎ 著者の考えと自分の考えとを区別するために、このような断り書きをしておきたい。
 これはまた、自分の理解を示すとともに、論述の前提を明らかにしておくためでもある。
 特に、今回の課題文のように、理路整然と述べられているとは言い難い文章の場合には、この処置が望まれる。

















◎ 問題点のこのとらえ方は論点を分かりやすくしている。















※ オイルショックは、石油危機とも言われる。1970年代のことだったのだね。


















必ずしも著者の考えをなぞるのでなく、その都度判断を加えていて、
鮮やかな結論ともなっている。


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I 「Web教育の是非」

(東京学芸大学 教員養成課程 国語専修・専攻 推薦入試)

 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

 (著者は、「情報テクノロジー(IT)が経済や社会を大きく変えているにもかかわらず、教育現場はその変化に対応していない」という説と、「インターネット時代でも、従来からの分析の枠組みを使って考えていけば、十分に対応できる」という説の二つを紹介した後、デジタル時代に対応したメディア・リテラシーの研究はまだスタートラインに立ったばかりだと断った上で、「子どもたちが新しいメディアと主体的に向き合えるよう支援する、先進的な試み」を紹介している)。

 カナダのトロント郊外にあるユニオンビル高校のコンピュータルーム。23人の生徒たちが、マウスをクリックさせる音がカチカチと響く。生徒たちが受けているのは、インターネットのウェブページを「読み書き」する「ウェブ・リテラシー」。授業では、ホームページの情報やデザインの構造などを様々な観点から分析したり、インターネットが社会にどのように影響しているかを話し合う。授業の最終目標は、生徒それぞれが文字や画像を駆使してホームページを制作し、自分の考えを発信することだ。
 面白いのは、この授業の目的がコンピュータ操作の習得ではなく、「国語」(英語)の選択授業として位置づけられている点だ。この授業が、現在各国で盛んに行われている、コンピュータを技術的に使いこなす能力を育成する「コンピュータ・リテラシー」、あるいは「情報リテラシー」と大きく異なるのは、あくまでもメディア・リテラシーの考え方をインターネットに応用し、技術的なことよりも、むしろ、情報について批判的に吟味していく点にある。コンピュータを操作することよりも、コンピュータを通して得られる情報の特性や、インターネットの経済構造と内容の関係などについて見ていくことがテーマになる。
 その日、授業の前半では、生徒たちは効果的にメッセージを伝えるホームページの特徴を話し合った。「本と違って、せいぜい斜め読みされる程度だから、文字量が多いとかえって逆効果」「色を使いすぎると、かえって目立たないのでシンプルにしたほうがよい」などと、様々な意見が出された。色やデザインを見ていくのは、文章でいう「形容詞」を吟味する作業に似ているらしい。担当のキャロル・アーカス先生は、授業は「読み書き(リテラシー)の範囲をインターネットに拡大したに過ぎないという。「国語の時間にウェブについて教えるのは、当然だと思います。最近の子どもたちは多くの情報をインターネット上から得ています。本をどう読めばよいかを教えるように、ウエブについても教える必要があります」。
                 (菅谷明子『メディア・リテラシー』より)
 
 本文の最後にキャロル・アーカス先生の「国語の時間にウェブについて教えるのは、当然だと思います」という言葉が紹介されているが、この考えについて、賛成か反対かを明らかにしたうえで、その理由を論述せよ。(句読点を含めて600字以内)。


はじめの答案 添削例・諸注意
 私は、「国語の時間にウェブについて教えるのは、当然だと思います」という考えに賛成だ。まだインターネットが普及していなかった頃、人々は新聞やラジオ、テレビなどで情報を得てきた。しかし、今は多くの情報をインターネットから得るようになっている。
 今やインターネットは新聞やテレビに取って代わる存在となっている。かつては新聞やテレビで情報を得たり発信したりするため、読むことや書くことを国語で学んだ。ウェブは新聞やテレビと同様、情報伝達の役割を果たすものなので、国語の時間にウェブにおける読み書きを教えることは当然必要になってくる。
 ウェブには個人が作成した私設サイトが多く存在するため、新聞やテレビと比べ、批判的な目で見ることがより大切になってくる。子ども達にはそれを教える必要がある。また、子どもたち自身がホームページを作成する授業は、自分の考えをどれほど効果的に相手に伝えられるかを考えさせるものだ。自分の気持ちをどのように表現し、相手に伝えるのかを考えること、それはまさに国語の授業であると思う。
 アーカス先生の言うウェブの授業は、コンピュータの操作といった技術的なものではなく、情報について批判的に見る能力を育てたり、読み書きの能力を育てたりするものだ。なのでウェブについて国語の時間に教えることは当然だと私は思う。

             (以上、約600字)







← かつては新聞を読んだり手紙を書いたりするために、読むことや……国語の授業で……



← ウェブにはブログなど個人が……多く存在するため、自己責任において考えを述べることがより大切になってくる。



← ……考えること、それを教えるのはまさに国語の授業の役割であると思う。


※ 「なので」はまだ辞書に載っていない。ということは、まだ社会に認められていないということになる。


書き直した答案 添削例・諸注意
 私は、「国語の時間にウェブについて教えるのは当然だと思う」という考えに賛成だ。まだインターネットが普及していなかった頃、人々は新聞やラジオ、テレビなどで情報を得てきたが、今は多くの情報をインターネットから得るようになっている。
 今やインターネットは新聞やテレビに取って代わる存在となっている。かつては新聞を読んだり手紙を書いたりするために、読むことや書くことを国語の授業で学んだが、ウェブは新聞やテレビと同様、情報伝達の役割を果たすものなので、国語の時間にウェブにおける読み書きを教えることは当然必要になってくる。
 ウェブにはブログなど個人が作成した私設サイトが多く存在するため、自己責任において考えを述べることがより大切になってくる。子ども達にはそれを教える必要がある。また、子どもたち自身がホームページを作成する授業は、自分の考えをどれほど効果的に相手に伝えられるかを考えさせるものだ。自分の気持ちをどのように表現し、相手に伝えるのかを考えること、それを教えるのはまさに国語の授業の役割であると思う。
 アーカス先生の言うウェブの授業は、コンピュータの操作といった技術的なものではなく、情報について批判的に見る能力を育てたり、読み書きの能力を育てたりするものだ。だから、ウェブについて国語の時間に教えることは当然だと私は思う。

             (以上、約600字)



























← ……教えることはその面でも有効だと思う。


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J 「コミュニケーション」

(東京学芸大学 教員養成課程 国語専修・専攻 推薦入試)

 次の文章の内容を踏まえた上で、「コミュニケーション」についてあなたの考えを600字以内(句読点を含む)で述べよ。
課題文の大意 (原文は約3,500字ー53字×67行)

 痛みを感じたときに、何も言わなくても身体が痛みを表現することがあるように、身体行為は言葉と同じように何らかのメッセージを伝えることができる。また、例えば、お父さんが食卓に付いて「おい」と言えば、お母さんが夕ご飯を並べるように、言葉も身体行為と同じように、言わない内容を伝えることができる。
 言葉にして伝えることと言葉にしなくても伝わってしまうことでは、「意味」の概念が異なる。両者の違いは、前者においては話し手の意図が意味であるのに対して、後者においては、話し手の意図とは無関係に、聞き手の読み取ることが意味となることである。
 哲学者のJ・L・オースティンは、話し手の意図である、はっきりと言われた意味をコンスタティヴな(陳述的な)意味、聞き手の解釈である、効果としての意味をパフォーマティヴな(行為遂行的な)意味と名づけたが、「身体を読む」とは、このパフォーマティヴな意味を読み取ることである。フロイトの「無意識」の発見もこのようなパフォーマティヴな意味の発見だったのであり、この発見こそが身体の持つ、読み解かれるべきものである。
               (三浦玲一『新しい言語観と身体』より)


はじめの答案 添削例・諸注意
 コミュニケーションというものは、たいへん難しいものだと思う。相手に自分の意思を伝えるには、まず、慎重に言葉を選んだ上で、表情や行動など体全体で表現することが必要だと思う。そして、読み取る側の人は、相手の発する言葉を素直に受け取るだけでなく、その言葉の裏に何があるのかを考える必要がある。
 私は、中学、高校で演劇に取り組んできた。その活動を通して、他者に自分の感情を正確に伝えることの難しさを知った。本の中ならば、登場人物の感情は言葉で詳しく書き表されているので、読み手は容易にその胸中を読み取ることができる。しかし、演劇では登場人物から発せられた言葉とその声色、表情や行動からその胸中を読み取らなければならない。演じる側は自分の全てを使い、相手に感情を伝えなければならない。自分の意思を発する者とそれを受け取る者、その両者の働きが重なり合って初めて、一つのコミュニケーションが生まれる。これは演劇の世界だけでなく、日常生活のコミュニケーションにおいても言えることだ。
 教師という職業はコミュニケーション能力が不可欠なものだと思う。教師は常に生徒一人一人の言動に注意を払い、生徒の発した言葉や表情、態度から彼らの胸中を正確に読み取らなくてはならないと思う。コミュニケーションというものは難しいものではあるが、この世界で生きていくのに必要不可欠だと私は考える。

             (以上、約600字)
※ 最初の一文を削除する。代わりに、「コミュニケーション能力は教師には不可欠だと思う」とでもする。
← そして、受け取る側の人は
← 言葉をそのまま受け取る
← 何があるのかを読み取る
◎ 事例がよい。
← 他者、つまり観客に


← 胸中を推察できる。





← 両者の働きが呼応して初めて

← 日常生活の……についても

← ……が不可欠だと思う。
← 教師は自分の意思を伝えるとともに、常に……
← 読み取らなくてはならない。

← ……難しいものではあるが、教師という職業においては特に、その能力は不可欠なものだと思う。

参考までに、
課題文の中には「コミュニケーション」という言葉は見られない。

書き直した答案 添削例・諸注意
 コミュニケーションの能力は教師にとって不可欠のものだと思う。生徒に自分の意思を伝えるには、まず慎重に言葉を選んだ上で、表情や行動など体全体で意思を表現する必要がある。また、生徒の意思を読み取る場合、生徒のの発する言葉をそのまま受け取るだけでなく、その言動から言葉の裏に何があるのかを考える必要もある。
 私は中学、高校で演劇に取り組んできた。その活動を通して、他者、つまり観客に自分の感情を正確に伝えることの難しさを知った。本の中ならば、登場人物の感情は言葉で詳しく書き表されているので、読み手は容易にその胸中を読み察することができる。しかし、演劇では登場人物から発せられた言葉とその声色、表情や行動からその胸中を読み取らなければならない。演じる側は自分の全てを使って観客に意思を伝えなければならない。自分の意思を発する者とそれを受け取る者、その両者の働きが呼応して初めて、一つのコミュニケーションが成り立つ。これは演劇の世界だけでなく、日常生活のコミュニケーションについても言えることだろう。
 教師という職業にはコミュニケーション能力が不可欠である。教師は常に生徒一人一人の言動に注意を払い、生徒の発した言葉や表情、態度から彼らの胸中を正確に読み取らなくてはならない。生徒の意思は言葉だけでなく、表情や動作にも表れることに注意する必要がある。

             (以上、約600字)
◎ 焦点を教師と生徒との間のコミュニケーションに合わせたのがいいね。











← 言葉と声調、表情や動作から












◎ 最後の一文で課題文の結論とも呼応したね。

論点を教師と生徒とのコミュニケーションに絞ったことによって
よい結論が導き出されたと言える。


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K 「グローバリズムとナショナリズム」


―― その1 ――
上智大学 総合人間科学部 教育学科 推薦入試


―― その2 ――
津田塾大学 国際関係学科 一般入試


準備中


掲載時期は未定です。

しばらくお待ちください。

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ユリの林